kaiunmanzoku's bold audible sighs

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第0列島線 「籌海圖編」上半分の島嶼は全て明の海防能力の外側(海防管轄外)だったことを表す

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画像は、東洋文庫 第4冊57頁 倭寇を偲ぶ烽火台(福州) 1927年4月撮影

 

2013年3月13日のFBへの投稿

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いしゐのぞむ氏 尖閣研究報告
籌海圖編(1562年)の沿海山渉圖(四書全書、台湾商務印書館)

長崎純心大学共同研究報告書「言葉と人間形成」の比較文化研究 

平成25年3月長崎純心大学較文化研究所 尖閣釣魚列島雑説七篇 
いしゐのぞむ氏(比較文化学科准教授)の報告書より複写

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海防書「籌海圖編(ちゅうかいずへん)」内「沿海山沙圖(えんかい さんさず)」

その地図中の赤い点線部は明の領土の境界線赤丸部分は明の国外にある軍の駐屯地である。様々な島の名前が書き込まれているが、明の領土は海岸線まで。一部の島嶼こそ軍の駐屯地であったが、その他は明の領外であり、明の海軍の最大の敵である倭寇の根城と言ってよい。図に見える魚釣島大正島久場島と言う尖閣諸島は明國外の倭寇が攻めてくる経路として描かれている

 

 上半分の島嶼には駐屯地はない

 

     ⇅ 対照的

 

下半分には、「巡検」「水寨(とりで)」「烽堠(烽火を上げる物見台)」「」「」「」などの駐屯地が列記される

 

また、明朝の領土は海岸までと「大明一統志」などの地誌に明記されているので、上半分の島嶼は全て明朝の領土外であり、海防能力の外側(海防管轄外)にあることを示している。

 

 

第一列島線を脅かすことに余念のないチャイナだが、彼らが歴史戦を挑めば第0列島線の歴史的文化的意味を問わざるを得なくなる。


古来、東ユーラシアにできた王朝にとって「海」は「界」であった。
陸上勢力である彼らは長く「洋」を知らず、陸の果てをもって「界」とした。「海」がそれである。

したがって、歴代王朝は例外なく海岸線を国境とし、沿岸から数十キロ離れた島嶼ですら権力下に入れることは稀であった。

香港やマカオ厦門といった沿岸部においては、常に倭寇勢力と接し、大河の沿岸部は大陸の奥深くまで度々侵略支配を許していた。近代においては西洋列強が倭寇に代わったに過ぎない。
歴史上、東ユーラシア沿岸部は常に外部勢力との力の均衡点であったと言える。
そうであってみれば、江南人たちが歴史・文化をチャイナと異にするのは当然であり、彼らが「中国の一部ではない」と主張する充分な根拠となりえるのだ。

現在、香港やマカオ、あるいは越人の血を引くと考えるカントニアの概念を持った若者たちが独立運動を起こすのも至極当然のことであると言える。

 

参考図書

尖閣反駁マニュアル百題』いしゐのぞむ著 集広舎

第三部 史料百題指南 十四 「福建沿岸圖の下半分に海防陣 上のすみの尖閣に海防は及ぶか」 196頁参照

南鮮人の確証バイアス回路 一旦信じ込んだことを肯定する事象はすべて受け入れ、それに反することは考えても見ず、全く受け入れない

www.sankei.com

 

確証バイアスの典型例だ。確証バイアスが南鮮人の病として特徴的だと南鮮のマスコミがちょっと前に紹介していた。


記事に出てくる南鮮の学生は、慰安婦問題を論じる上での基本的な知識が無いにも拘らず、一旦信じ込んだことを肯定するための事象はすべて受け入れ、それに反することは全く受け入れない。
事実を見ても聞いても正しく思考する回路が働かない。完全に壊れた状態だ。以前にこの状態に陥っている南鮮人たちを、私は「事実を見ても現象を説明できる言語と思考回路を持っていない人々」と表現した。まさにそれだ。

 


ここでいう一旦信じたこととは、「日本は悪者である」。「老衰したおばあさんは正しいことを言っている」である。その固定観念の枠を出ることは甚だ困難だろう。情緒、特に脳幹に訴える怒りや恨みの感情と結びついた固定観念は、理性的な思考を拒否する朱子学の影響下に長くあった半島の人々は、それを好んで「恨」に化してしまう。

 

どういうことかというと、こう言うことであると考える。

情緒的「正義」が満足されることが「善」。自己肯定と同義。

情緒的「正義」が否定されることが「悪」。自己否定と同義。

社会的弱者が強者によって情緒的「正義」が否定されつつ生活せざるを得ない場ではあるが、そこになんとか例外的な自己肯定の場を持ち込もうと本能的な努力をする。それは精神的努力だ。だから、そこに「恨」が生まれ、「火病」が生まれる。

「社会矛盾で恒常的に抑えられた自己肯定欲求が、「反日」によって情緒的「正義」を満足させたくなる」と言い換えても良い。

そのような思考や行動を無理やりにでも解釈しようとすれば、そうなるのだろう。

そんな場合には、他者から見たら馬鹿げたことで信じられないのだが、一旦情緒で善や悪と判断して受け入れてしまったものを「そうではなかった」と修正できないらしいのだ。

 

付和雷同して大きな声で叫べば、それが「正義」になるというお国柄である。

先に述べた事が当たっていれば、民族的集団ヒステリーということになる。

日本と日本人に何でも原因を押し付けさえすれば(反日という場を与えれば)、後は民族に備え付けられた確証バイアス回路がその国を動かしてくれるという訳だ。


チャイナと北の赤色工作員にとって、こんなに操りやすい国と民族はないだろう。

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第0列島線が歴代チャイナ政権の海防最前線だった(明の領域は海岸線まで)

古来、東ユーラシアにできた王朝にとって「海」は「界」であった。だからこそ、歴代王朝は例外なく海岸線を国境とし、沿岸から数十キロ離れた島嶼ですらその権力下に入れることは稀であった。

「香港は中国の一部ではない」と主張する香港独立派には立派な歴史的文化圏的根拠がある。

 

下記は、長崎純心大准教授石井望氏による「歐州史料 尖閣獺祭録 第八十二囘」だ。
明の領域は海岸線である。第0列島線こそが歴代チャイナ政権の海防最前線であった。

1595年編集 謝杰(しゃけつ)による「虔臺倭纂(けんだいわさん)」を見ると
東湧横に注記「此海外要地倭船多由此過」とある。
「これ海外の要地なり、倭船は多くここより過ぐ」と読み下す。


東湧とは現在の馬祖列島。馬祖列島の現在の位置を下の方に示しておく。

海外とは、境界の外だ。

Essay / Senkaku 「海」は「界」であった。 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

その東湧のすぐ横に注記があり、チャイナの界の外で重要な場所と書いてある。意味は、国境である海岸線を守るうえで重要ということである。つまり、これ此海外要地倭船多由此過明の海防の最前線が馬祖列島であることを示す文言だ。

 

画像は 八重山日報 平成28年11月3日 版 長崎純心大准教授石井望氏

による「鷗州史料 尖閣獺祭録 第八十二囘」から

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今の地図で馬祖(東湧)と尖閣列島魚釣島)の位置を比べてみよう。

陸地からほど遠くない海域が、明朝の海防最前線であったことがお分かりいただける。

赤字で書いた此海外要地倭船多由此過「此」の上の小さな白い点が東湧(現在の東引島)だ。馬祖と書いた字の内側を倭船が多数通行していたと明朝の高級官吏が記録に書き示しているのだ。

 

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東ユーラシア沿岸部は、中華を称する陸上勢力と日本や西洋の海上勢力との力の均衡点であったと言える。

第0列島線 (The Zero Island Chain)こそが、歴史的・文化的国境線だと言えるのだ。

そうであってみれば、第0列島線上にある香港やマカオが歴史・文化をチャイナと異にしている現実は「中国の一部ではない」と主張する充分な根拠となり得る。

第一列島線 を脅かす主張を憚らないチャイナ政府が「歴史戦」を日本に挑むなら、第0列島線もその戦場になると覚悟すべきだ。

祖国(国家への帰属意識)を持たない難民と祖国を持つチベット亡命政権

歴史や文化、慣習の土台に乗った秩序。普段は意識することの無い空気のように、家族、友人、地域を形作っている秩序。それこそが国家を形作り、それに参画している「国民」という意識を産む母体である。国家に対する帰属意識がそれだ。


国民国家には国家の柱になるコアがあり、歴史と文化がある。それが象徴されるのは、言語であったり、理念であったりするが、多くは国旗や国歌にそれが良く表されている。およそ国民国家の意識が成立している人々で構成される集団なら、コアになる元首や理想を表した国旗・国家がある。

 

例えばチベットも不当に中共に支配されてはいるが、立派な元首と国旗がある事は知られているだろう。彼らは明確に国家に対する参画・帰属意識がある。

 それどころか私に言わせれば、チベット亡命政府こそが立派な「国民国家」だ。

国土こそ不当に中共に支配されて奪われていても、核になる元首と国旗、なによりも国家に帰属意識を持つ「国民」がいる。亡命政府とは言えども、立派な国民国家が成り立つということの証明だ。


今日の難民社会を困難にしているのは、「難民たちに帰属意識を持たせる『祖国』がない」ということであろう。

現在行われている難民支援の主流は、衣食住や医療という生命維持を中心とする人道支援が中心である。これはこれで、最低限必要な支援として続けるべきだが、戦場や迫害から逃れられる周辺地域からさらに先進諸国へ避難民や移住民として移動をする人々に対する対策が必要だ。

とはいえ、その最大の問題は、国家に対する帰属意識を持っていない人々が多いということであり、困ったことに大多数がそうだという現実にある。

彼らは、自分たちが部族や宗教や利益を与えてくれているグループにそれぞれ帰属していると考えている。「〇〇部族」「○○派XX教徒」「政権支持派」「反政権派」等だ。

 

東ユーラシアには、これから大量に難民を生み出すかもしれない共産国家がいくつかある。そこにも国家に参画している、帰属していると心底思っている国民意識を持った人々は少ない。いるのは、「〇〇人民」、「XX族」や「党幹部」「都市住民」「農民」等だ。運が良ければ自ら考える「民衆」が誕生するが、党や軍に所属している人々にすら、殆ど国家に対する帰属意識などない。国家体制を拠り所に寄生して利をむさぼる人々であるか、彼らに寄生されて利を稼ぎ出す人々の差があるだけだ。


これらの国の人々は、主権者として国家に帰属しているという意識がないため、祖国を簡単に捨てるファシズムの支配する国々では特にそうだ。

 

彼らに、紛争が終わった、あるいは、危険が去ったからと言って、「『祖国』へ帰れ」と言ったところで、彼らが脱出してきた土地は、彼らにとって、彼らの『祖国』とは言い難い。政治的・精神的に帰属する国がないからだ。移住先の国が放置すれば、その国の社会保険制度、教育、職に寄生し、その国の歴史文化的価値観に溶け込めず、濁らせるだけの厄介者になりかねない。

それこそが今日の難民問題の本質だと思う。

国家への帰属意識なき難民には「教育」によって国造りを教え込む以外に方法はないということだ。国造り以上の愛国活動はなく、国への帰属意識を育てる土壌もまた人の心にしかない。難民対策の核心はそこにある。

 

その際、難民自身が主体となって行う国造り教育が望ましい事は言うまでもないだろう。

 

下記の章に書いた(1)~(3)の活動が参考になると思っている。

そのなかで「祖国」を作ることが難民対策だ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

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半島から、職を求め戦火を避けて密入国した人々も同じ問題を抱えているだろうがここでは取り上げない。

天寿国繍帳銘文から知る 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘文は、太子、太子の母、膳夫人の「天寿国」における称号を記した

その光背の銘文に推古天皇の名が記載されていない事をもって、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説には承服しがたい。

 

奈良県斑鳩町中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品、天寿国繍帳銘文に推古天皇の名があり、天寿国繍帳が推古天皇によって作られたと明白なら、ほぼ同時代の法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」とあるのは聖徳太子であると考えるのが至当だ。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記すことが可能になったのだ。そう解釈する。

つまり、

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における称号を記した。」それぞれ、法王、太后、王后である

と考える。

生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像は天寿国への「太子の(法王としての)往生の様子」という意である。推古天皇の名が記載されていないのは、天皇がこの世の天皇であり天寿国にまだ往生していないからである。記しようがないではないか。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記せるのだ。

 

天寿国繍帳銘文
Wikipediaより

天寿国繍帳 - Wikipedia


銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている。

以下に原文読み下しの一部を引用する。

辛巳十二  月廿一癸  酉日入母  孔部間人
歳(ほし)辛巳(かのと・み)にありし十二月二十一(日)癸酉(みずのと・とり)の日のくれに母の孔部間人
 王崩明年  二月廿二  日甲戌夜  半太子崩  于時多至
王(あなほべのはしひとのみこ)崩(かむざ)りましぬ。明くる年の二月二十二日甲戌(きのえ・いぬ)の夜半に太子崩りましき。時にたち
 波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天  皇前曰敬  之雖恐懐
ばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う
 心難止使  我大皇與  母王如期  從遊痛酷  无比我
心止(や)みがたし。わが大皇(おおきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎ)りしが如く從遊(じゅゆ)せしめたまう。痛く酷(から)きこと比ぶる無し。わが大
 所告世  間虚假唯  仏是真玩  味其法謂  我大王應
王の告げたまいしく『世間は虚假(こけ)にして、ただ仏のみこれ真なり』と。その法(のり)を玩味(あじわ)うに、わが大王は
 生於天壽  國之中而  彼國之形  眼所叵看  悕因圖像
天寿國の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。而(しか)るに彼の國の形は眼に看(み)叵(かた)き所なり。悕(ねが)わくは図像によりて
 欲觀大王  往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子
大王が往生したまう状(かたち)を觀(み)んと欲(おも)う」と。天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。
 所啓誠以  爲然勅諸  采女等造  繍帷二張  畫者東漢
啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」と。勅して諸の釆女(うねめ)らに繍帳二張を造らしむ。畫(えが)ける者は東漢(やまとのあや)の
 末賢高麗  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻

末賢(めけ)、高麗(こま)の加西溢(かせい)、また漢(あや)の奴加己利(ぬかこり)。令者(つかさひと)は椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたのくま)なり。

+++++便宜のためWikipediaから引用の文意+++++
辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。大王太子)は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって大王太子)の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳(ぬいもののかたびらふたはり)を作らせた。画者(ゑがけるもの、図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(つかさどれるもの、制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはたくま)である。

+++++引用終わり+++++

 

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この章は、下記のブログ記載内容につき質問があり、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説についての私見をコメント欄に記載したが、それを書き改めたものである。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではない。
生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像天寿国への「(大王と記されている)太子の往生の様子」という意である。

その当時の人々が、仏教の保護者として「その人」の往生を描くことの意味。

それこそ、「その人」の存在が「聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではないことを示している。

 

救世観音大菩薩聖徳皇 親鸞聖人が枕元に見たのは「聖徳太子」であって、「厩戸王」ではなかった。

【「聖徳太子厩戸王)」であって「厩戸王聖徳太子)」ではない】


親鸞聖人が枕元に見たのは「聖徳太子」であって、厩戸王ではなかった。

聖徳太子とは、後世に語り継がれてきたものも併せて聖徳太子です。厩戸王も当時のネストリウス派キリスト教の影響を受けた名前で否定する気はありませんが、現在的価値を持つ言葉ではありません。「その言葉で太子を言い表すことが出来ない」という意味です。


聖徳太子の在りし日の仏教への貢献が、後の世の救世観音大菩薩聖徳皇に繋がっていくことは、誰もが認めている事なのです。ですから、厩戸王の呼称がまかり通ると、その歴史的価値、日本の仏教の礎を築き、菩薩として崇拝を受けるに至るまでの尊敬の源、源泉を見失ってしまうことになりかねません。それは一種の文化破壊、歴史的抹殺ですらあります。


括弧の中に入るべき言葉は(厩戸王)であって、「聖徳太子」ではありません。

 

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厩戸王ではなく聖徳太子こそ歴史教科書に相応しい表記

学習指導要領改定案で聖徳太子の呼称を「厩戸王」に変えた問題について、文部科学省パブリック・コメントを届けた。

 

聖徳太子は、推古天皇摂政として蘇我馬子(大臣=おおおみ)とともに支えた実在の人物だ。
法隆寺釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框の墨書「辛巳年八月九月」が621年を意味し、当時「上宮法皇」は仏教保護者に相応しい称号といえる。

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画像は下記のWikipediaから、赤線はその画像に加筆した。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 - Wikipedia

 

法興元丗一年 歳次辛巳十二月、鬼
太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

— 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』

 

趣旨:上記のWikipediaから引用

推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」

誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土・悟りに至ることを祈念している。光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。

 

「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」の「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)であり、歳次でいう辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。また、聖徳太子の生前の祈願(上宮法皇枕病弗悆)であると記載されている事実からも、翌年の2月22日に太子が亡くなったとき「上宮法皇」として尊敬されていたことは明白だろう。

 

上記を理由として、文科省パブリックコメント:意見募集中案件に意見を述べて置いた。

+++++提出意見欄記載内容+++++

厩戸王ではなく聖徳太子こそ歴史教科書に相応しい表記】

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」と記載されることこそ、「聖徳」と贈名されるに相応しい事実であろうと思います。

621年当時「上宮法皇」とあがめられている人物が「厩戸王」という名で歴史教科書に登場するのでは、仏教保護者として果たされた業績にそぐいません。

 

 

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当時、仏教保護者として「上宮法皇」と言う称号を得ていた人物を「厩戸王(うまやどのおう)」と呼称することは、聖徳太子が仏教の布教に果たした役割を伝えきれないと感じる。

この一事をとっても、日本史上もっとも大切な人物として長年位置づけられてきた聖徳太子のその呼称を否定し、「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばせるという方針は、承服しがたいというのが私の思いである。

 

文科省への意見は下記から提出できる。 意見・情報受付締切日は 2017年03月15日まで

search.e-gov.go.jp

 

2017年2月23日 「光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。」の一文を付け加えた。

History / Senkaku 針路を決め船を操っている琉球人が釣魚嶼を航路目標として操船した

日本人が尖閣問題を話すときの1番のポイントは、これだ。

陳侃をはじめとする明国の一行に島を指し「あれが釣魚嶼だ」と琉球人が教えなければ、陳侃は「使琉球録」に「釣魚嶼」の名を残すことはできなかった。

 

チャイナは、「陳侃の書いた『使琉球録』に史上初めて『釣魚嶼』が登場する」事実をもって、尖閣諸島がチャイナのものであるという主張をしている。

 

しかし、陳侃の「使琉球録」で分かることは、琉球王太子冊封使一行に対する配慮で、冊封船は羅針盤を司る琉球人の水先案内人と操船に熟練した琉球の水夫30名が率いていたということだ。

この事実については下記の「陳侃三喜」を参考願いたい。

History / Senkaku 陳侃三喜 沖縄人の『おもてなし』に感激した冊封使 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

History / Senkaku Chen Kang was delighted three times / Chinese did NOT know the route to the Ryukyu Kingdom - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 

針路を決め、船を操っている琉球人こそが釣魚嶼を航路目標として案内したのだ。

陳侃が釣魚嶼を冊封船から見ることが出来たのも、記録することが出来たのも、琉球人の操船と解説のおかげである。

 

平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼の島名が見えるが、いずれも琉球航路を知らない福建人、明人に代わって琉球人の看針通事(水先案内人)が針路を選び案内したものである。4島のうち後の3島が現在の尖閣諸島だ。

 

平嘉山:(彭嘉嶼)彭佳嶼(ほうかしょ)のこと
釣魚嶼: 魚釣島のこと (ちょうぎょしょ)と読んでも日本語である。
黄毛嶼:(黄尾嶼) 久場島のこと (こうびしょ)は日本語
赤嶼:(赤尾嶼)大正島のこと (せきびしょ)は日本語
必要があって、Kobisho Island、 Sekibisho Islandと表記するのは日本語なので問題ない。

念のためだが、事例を挙げておこう。

釣魚(ちょうぎょ)と読む。
釣魚図鑑(ちょうぎょずかん)と読む。
釣魚島(ちょうぎょとう)と読む。
すべて日本語(漢文)。


釣魚(diàoyú)と読むとチャイナ語だ。

そして、近年に至るまで釣魚を Diàoyú と読んだ形跡は世界中どの地図、どの史料にも存在しない。1972年になって中共が Diàoyú と記載したのが最初だ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

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References:

上記の画像は下記のサイトから

manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp

 

参考図書

尖閣反駁マニュアル百題 いしゐのぞむ著 集広舎

       第四部共著者 伊井茂 赤染康久

尖閣釣魚列島漢文史料 いしゐのぞむ著 長崎純心大学比較文化研究所

 

中華プロパガンダ すなわちチャイナの嘘 を 大雑把にまとめてみた

【中華プロパガンダの大雑把なまとめ】
世界平和のために粉砕しなければならないなければならない #中華プロパガンダ
すなわちチャイナの嘘を箇条書きにしてみた。


1.#核心的利益 と称する領土領域問題と捏造歴史
 ①#一つの中国 #台湾
 ②#Tibet 虐殺と弾圧
 ③#Uyghur 虐殺と弾圧
 ④#尖閣 #EastChinaSea
 ⑤#SouthChinaSea #九段線
 ⑥その他 #AksaiChin #ArunachalPradesh #Bhutan #Kashmir #統一中華 #SouthMongolia

 

2.捏造歴史問題と人権弾圧
 ①#琉球両属
 ②#南京攻防戦
 ③#慰安婦 南北朝鮮と共闘
 ④#抗日戦を戦った中共
 ⑤#靖国 #戦犯 南北朝鮮と共闘
 ⑥#天安門事件
 ⑦#強制徴用 南北朝鮮と共闘
 ⑧#竹島 南北朝鮮と共闘

テロ等準備罪における共謀についての考察

【犯罪者集団の共謀罪


人が、ある動作を目的をもって行う場合、その動作を「(目的的)行為」と言う。


人の行為というものは、彼もしくは彼女に意思があるならば、行動を起こす段階で、常にその目的を達成するための手立てを考えねばなりたたないだろう。

つまり、目的実現のための手段を選択することこそ、目的実現のための第一歩になる。次段階は、その手段をコントロールして目標達成に導くことである。


ある行為が犯罪とされるのは、その行為が条文に記された事柄や条件(構成要件)をみたす「違法」で「責任」を負わねばならない行為のときである。


犯罪者集団の構成要件が、犯罪を実行する目的で結合することにあるのなら、初めは犯罪を目的としなかった集団においてもその結合が犯罪実行に向けられた時に、結合は目的実現(犯罪実行)のための手段に変貌したと判断しえる。
「犯罪実行に向けられた時」とは個人が犯罪実行の目的を持っただけでは足りず、謀議が行われた時、「謀議の時点」である。その時点で「結合は目的実現犯罪実行のための手段に変貌した」といえるだろう。

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