沖縄は「どんなに遅くとも」1609年には日本。
もちろん、文化的民族的には古代から日本です。
1609 (慶長十五年)琉球王国の滅亡。薩摩、琉球に3,000名余りの兵を派遣し、首里城を落して、尚寧王を捕らえる。薩摩藩の琉球支配。
1611 (慶長十六年)後琉球(琉球王国)の再興 薩摩の「掟15条 」 の制定 幕府の要望に応えて明国との友好関係を継続させる必要があった島津は琉球の王権を(朝貢貿易に係わる範囲で)形式上認めることにした。つまり、島津は明朝の要請に答える形で尚寧王を琉球に戻すことにした。しかし、実権が島津にあることを琉球王及び官僚に思い知らせるために起請文を書かせたうえで、掟15か条を制定した。島津家久が尚寧王に「日明互市通好」の交渉を命ずる書簡を送る。
1612 (慶長十七年)『明神宗実録』巻四九七、萬暦四十年(1612)秋七月己亥条
福建巡撫丁継嗣奏、琉球国夷使柏寿・陳華等執本国咨文、言王已帰国、特遣修貢。臣等窃見琉球列在藩属固已有年、但爾来奄奄不振、被係日本、即令縦帰、其不足為国明矣。況在人股掌之上、寧保無陰陽其間。
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福建巡撫 丁継嗣が「琉球の使節の裏には日本の策謀があり琉球は日本の手や足の上で意のままに動かされている存在ではないか」と疑い、その意見を神宗皇帝に上奏した。どうやら、この時点で島津に捕虜された琉球国王尚寧が帰国したものの、すでに薩摩のコントロール下におかれ、自主性を失ってしまったため、明朝から琉球は国として認めてもらえなかったと推測できる。そして、
1617 (八重山日報に発表の石井望氏の発見)
大陸政権による琉球の日本への服属の公式承認
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徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍が、
「汝の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役属するは、また皆、わが天朝の赦前の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。
汝并琉球及琉球之私役属於汝亦皆吾天朝赦前事
8年前の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことを公式に容認するにいたる。
1673 (寛文13年)オランダに対する「御條目」の言い渡し
○ヨーロッパに流布した幕府の琉球領有宣言 いしゐのぞむ氏の研究より
西暦十七世紀後半から、徳川幕府はオランダに対して「御條目」を毎年申し渡していた。オランダ側にも記録がある。その第五条では、「琉球は日本に属するので、オランダは海賊行為をしてはならない」と述べる。
徳川幕府と長崎奉行所にその文書の記録が蔵書されており、オランダでも使節が日誌等に書き留めている。
バハンとは「八幡」とも書かれ、海賊行為のこと。
「琉球国は日本の統治下にあるのでどこで遭遇しても琉球船に海賊行為を働いてはならない」
上記の画像は下記の石井氏の発表資料から便宜のため抜き出した。
その代表的で重要なのは次の3人によるもの。
1692年 蘭館長 ケンペル(ドイツ人)
1826年 蘭館医 シーボルト(ドイツ人)
1830年 蘭館長 メイラン
その史料画像(欧州語による記録)は上記の石井氏の発表資料で見られる。
オランダ商館長へ伝えられた「琉球は日本」との情報は、オランダ語はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語等でヨーロッパの国々に伝えられたのである。
「日本と琉球、島津氏と琉球王国の関係」についての知見がこの年代に存在し、英国及び欧州に普及したと判断できる表記の地図が世界に残されているのは、偶然ではなく必然なのだ。
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