kaiunmanzoku's bold audible sighs

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Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.

「史上初、ブラックホールの撮影に成功」の凄さ

 

「昔見たあのブラックホールの画像はいったい何だったの?」と思ったあなたのために

「史上初、ブラックホールの撮影に成功」の凄さが分かりにくいので、参考部分に画像で説明を入れてみた。
このブログの下の方の「参考」を読んでいただきたい。

https://alma-telescope.jp/assets/uploads/2019/04/20190410_EHT_M87BH-773x450.jpg

プレスリリース - 史上初、ブラックホールの撮影に成功 ― 地球サイズの電波望遠鏡で、楕円銀河M87に潜む巨大ブラックホールに迫る - アルマ望遠鏡

 

イベント・ホライズン・テレスコープの建設と今日発表された観測成果は、何十年にもわたる観測的・技術的・理論的取り組みの賜物です。さらに、世界中から集まった研究者たちの緊密な連携の結果でもあります。イベント・ホライズン・テレスコープを実現するために13のパートナー機関が力を合わせ、既存の観測装置を活用するとともにさまざまな機関からの支援も受けて活動してきました。主要な資金援助は、アメリカ国立科学財団と欧州連合の欧州研究会議、そして東アジア地域の資金配分機関からのものです。

日本の研究者も、さまざまな面でこの研究に貢献しました。まず、日本と台湾・韓国、北米、欧州が共同で運用するアルマ望遠鏡は、観測に参加した望遠鏡の中でもっと感度が高く、イベント・ホライズン・テレスコープ全体の感度の向上に大きな貢献をしました。また、アルマ望遠鏡をイベント・ホライズン・テレスコープの一員とするために、山頂のアンテナ群から山麓施設にデータを伝送する装置は国立天文台が開発しました。さらに、日本はアジアのパートナーと共に東アジア天文台を設立しており、東アジア天文台がハワイのジェームズ・クラーク・マクスウェル望遠鏡の運用を担っています。

「日本の研究者は、ソフトウェアや研究においても貢献をしています。私たちは、『スパース・モデリング』と呼ばれる新しい手法をデータ処理に取り入れました。これにより、限られたデータから信頼性の高い画像を得ることができました。最終的には、4つの独立した内部チームが3つの手法でデータの画像化を行い、いずれもブラックホールシャドウが現れることを確認しました。」と、イベント・ホライズン・テレスコープ日本チームの代表である本間希樹 国立天文台教授・水沢VLBI観測所長は語ります。研究チームの一員で、2019年3月まで国立天文台に在籍し現在はマサチューセッツ工科大学ヘイスタック観測所に移った森山小太郎研究員は「さらに私たちは、具体的な方法を変えながらおよそ5万通りもの画像化を行い、得られたブラックホールシャドウの画像の特徴が本当に信頼できるものであるかを入念に確かめました。」と語っています。

同じく研究チームの一員である田崎文得 国立天文台水沢VLBI観測所特任研究員は、「日本独自の手法でデータを解析し、ブラックホールシャドウの画像化に成功した時は、本当に興奮しました。さらに画像化の成功を世界中の仲間と共有できたことは、これまでで最も幸せな瞬間の一つです。」とその喜びを語っています。

また、台湾中央研究院天文及天文物理研究所の小山翔子 博士研究員は「画像化の前段階でも、独立に開発された3つの手法で解析を行い、解析結果が十分に一致することを検証しました。こうした途中経過にスポットライトが当たることはあまりありませんが、研究の一ステップごとにチームメンバーが緻密な努力を積み重ねてきたことが、今回の成果につながったのだと思います。」と語っています。

 

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2019年4月11日 読売朝刊

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2019年4月11日 読売朝刊

 

 

 

参考

下の画像は今回報じられたブラックホール楕円銀河M87)と異なる天体(NGC4261銀河)の画像だ。この画像に見覚えがある方もいるだろう。

 

この画像は2002年11月1日発行 2004年5月10日第2刷 のNewton別冊に掲載のもので、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影し、ガス円盤の中心から噴出する電波ジェットを観測できたとして有名なものだ。

これにはブラックホールは映っていない中央にある明るい白い点の「奥」にガス状の降着円盤があり、その中にブラックホールが存在していると考えられる」とされている画像だ。

今回の成功は、この白い点のようなところを、さらに極小の針で突いたような部分に存在するブラックホールを画像として捉えたものだ。

いかに画期的であるかが分かると思う。

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ハッブル宇宙望遠鏡による撮影(NASA) Newton 別冊 改訂版 4次元宇宙の謎

2003年のNewton別冊(下図)には、その白い点の解説図が掲載されている。

この左側の四角で囲まれた部分の撮影に成功したのだ。

 

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Newton別冊 改訂版銀河大紀行 2003年発行

 

 

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通貨発行権は主権国家の信用の証

市場で過去に危機に陥ったことがある韓国ウォンをドルに交換してもらえるのも、日本がバックにいて、何があっても見離さないと諸外国が思ってるからだ。諭吉も栄一も気に入らないならスワップ協定も要求しないことだ。

 

韓国メディア、渋沢栄一を「収奪の象徴」と批判 - 産経ニュース

 

www.fnn.jp

https://www.boj.or.jp/announcements/release_2019/rel190409a.pdf

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日本銀行資料 https://www.boj.or.jp/announcements/release_2019/rel190409a.pdf

 

韓国の御用学者とマスコミ各社の記者諸君は、何でも善悪二面論で日本を悪者にしたがるから、墓穴を掘ることになる。
近代史と経済をしっかり見直しし勉強する機会として活かして欲しい。

 

金貨や銀貨ならともかく、信用が無い国が紙の通貨を発行しても、その通貨に信用がないのだから流通しようがない。それが20世紀初頭の朝鮮半島だ。

無理に通貨量を増やせば、通貨の価値は下がるところまで下がって、その通貨を使いたいという人がいなくなる。そしてその代わりに、欲しいという人が多い(価値が下がらず、信用が持続する)通貨が持ち込まれて市場に流通するようになるだろう。

 

第一銀行が朝鮮半島に進出したのは1878年李氏朝鮮時代」であり、韓国が主権を奪われたと主張する日韓併合の32年前。1902年に渋沢栄一肖像画が描かれた「無記名式一覧払い約束手形」が発行される前でも、後でも自国通貨発行の機会があったはずだ。出来なかったのは、信用力が決定的に不足していたからだ。

 

通貨発行権主権国家の権利だが、信用がなければ権利があっても行使しようがないという事だ。その当時の半島には、海外に輸出して外貨に換えられる産品がなかったのだ。つまり能力が不足していたということだ。

恥じるのなら、国の近代化こそが通貨発行能力を育む唯一の方法であったことに気付く優秀な人々を迫害してきた歴史を恥じるべきだ。何でも善悪二面論で日本を悪者にしたがる朱子学的思考方法を改められないから、墓穴を掘ることになる。思考方法すら近代化されていない。これではいけないと昔から韓国の一部の教養人や指導者は気付いていた。しかし発言するたびごとに弾圧され迫害されて来ている。

かっては守旧派に、戦後は主体主義思想に洗脳された人々と彼らに付和雷同する愚か者たちに。

それでも、半島の近代化を助けた恩人として金玉均渋沢栄一が見直される日が来ることを信じたい。だが、その中途では民族的試練がどうしても必要なのかもしれない。

 

海自と英海軍 北の瀬取りを摘発

本来なら、新聞テレビが大きく報じておくべき事件。二日たっても小さく扱ったままだ。というわけで、今後の展開によっては引用の必要もあるのでブログに再掲載しておくことにする。

 

海自と英海軍 北の瀬取りを摘発

平成31(2019)年4月7日 読売朝刊

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海自と英海軍 北の瀬取りを摘発 平成31(2019)年4月7日 読売朝刊

 

 

米国務省 イラン革命防衛隊をテロ組織指定の方針

本来なら、新聞テレビが大きく報じておくべき事件。二日たっても小さく扱ったままだ。というわけで、今後の展開によっては引用の必要もあるのでブログに再掲載しておくことにする。

 

国務省 イラン革命防衛隊をテロ組織指定の方針

平成31(2019)年4月7日 読売朝刊

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国務省 イラン革命防衛隊をテロ組織指定の方針 平成31(2019)年4月7日 読売朝刊

 

 

嘉辰令月歓無極 かしん れいげつ よろこび きはまりなし

嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央

かしん れいげつ よろこび きはまりなし ばんせい せんしゅう たのしみ いまだなかばならず


和漢朗詠集》に「君が代」と並んで、祝いの歌として載っている有名なもの。

超訳: めでたい日にめでたい月 喜びは尽きることなく、万年も千年も楽しみは続く

 

著名な東大教授が「令」という字に関するイメージをテレビで誤って伝えていたので、正しい知識を伝えるために #令月 に関する説明としてFBに投稿したもの。

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誰しも誤りや勘違い脱線はある。誤りは正せばよい。今回はマスコミでの出現が際立って多い、一般の人々に影響力が大きい東大教授の肩書を持った人物だったので

残りの5案に拘泥する妄執の東大教授は、ただのアホでなければ文化破壊で日本世論分断工作を行う不逞者。アホのほうだと信じてあげたい。

と、書き込んだ。歴史学と漢文では畑が違う。アホをやってしまっても恥ではないと思う。

 

画像はこちらのもの:

古代歌謡集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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参考:

紫式部日記を読むと、藤原道長の孫(後一条天皇)の誕生を祝う宴でも朗詠されたことが分かる。実は現代でも朗詠されている大変有名な祝詞である。

dl.ndl.go.jp

「令和」は "Harmony is Precious" であり "Precious Japan" でもある

律令の場合の令(りょう)は、命令 "order" の意味ですが、令月の令(れい)は良い、貴く立派な、縁起が良い "lucky" ”precious”の意味になります。

https://www.facebook.com/ethan.kaiunmanzoku/posts/2137093569740252

  

令月の令(れい)は良い、縁起が良い、吉、貴く立派な "lucky" や ”precious”の意味になります。和(わ)に "harmony" という意味があると気付けば、「令和」は "precious harmony" であり「以和為貴」となります。

https://www.facebook.com/ethan.kaiunmanzoku/posts/2137451856371090

 

令=良い、縁起が良い、吉、貴く立派な "lucky" や ”precious”の意味。
和=日本 と考えて「令和」を "Precious Japan" とも解釈できますね。

https://www.facebook.com/ethan.kaiunmanzoku/posts/2137518446364431

 

 

字源を引くと、上から跪いた人に話しかける様子が描かれており、お告げを聞くことと書いてあって、意味としての第一義が神からのお告げ、次に上位者による指示命令、その次に良い事となっていて、令息、令嬢、令室などの例が挙げられています。

元号となった「令和」の「令」は、令月の令で、上の3つの意味のうち、良い事を意味すると分かると思います。

良い事を意味する「令」を使った熟語の例として、

令人:良い人、立派な人

令日:めでたい日、よい日柄、(時節柄貴重な)吉日

令主:良い君主、すぐれた殿様

令名:良い評判、名誉

令聞:良い評判、ほまれ

これらの使われ方を見れば、「令」には "admirable" "exellent" "good" "lucky" "happy" "honorable" "precious" 等の英訳が似合うことがわかります。

万葉集梅の花の歌の序文にある「令月」というのは、冬が去って、梅が咲き、蘭が香り、蝶が舞うような初春ということで、ようやく春らしい春がやって来る兆しに希望を抱くような日、そんな日に素晴らしい人たちが集うという、めでたく貴重な月であり日ということです。

 4月2日になって外務省は「令和」の英訳として "Beautiful Harmony" を世界に発信した。上記の趣旨と合致する良い英訳だと思う。平成31(2019)年4月4日追加

+++++念のため読み下しと原文を書いておきます+++++

万葉集 第五巻  梅の花の歌 32首のすべての序文として 

 

天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。

 

時に、初春(しょしゅん)の月(れいげつ)にして、気淑(き よ)く風(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。

 

加之(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。

 

庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。


ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。

 

淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。

 

古と今とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

 

 

万葉集 第五巻 梅花歌卅二首 [并序] 

 

天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇 古今何異哉 故而賦之于園梅 聊成短詠也

 

上記の読み下しと原文は下記を参考にした。

万葉集/第五巻 - Wikisource

 

下記の訳文はインターネット上から拾ってきたもの。参考として記載しておくが、後で自分なりに訳してみたい。

 

天平二年正月十三日、長官の旅人の邸宅に集い宴会を開いた。時は初春の良き月、空気は美しく風も和やかで、梅は鏡の前で装う白粉のように白く咲き、蘭は身に帯びた香りのように香っている。そのうえ、明け方の山頂には雲が移ろい、松は薄絹のような雲を被いて天蓋を傾け、山の窪みに霧がわだかまって、鳥は霧にたちこめられて、林に迷っている。庭には新しい蝶が舞い、空には年を越した雁が飛び去っていく。ここに天を天蓋とし、地を座として、人々は膝を近づけて酒盃を酌み交わしている。一座は言葉を忘れて睦みあい、雲の外に襟を開きあっている。それぞれが淡々と心の赴くままに振る舞い、快く満ち足りている。もし筆に記すのでなければ、どうやって言いあらわす事ができようか。詩経にも落梅の詩篇が記されている。古今異なるはずもなく、庭の梅をよんで、いささかの短歌を作ろうではないか。
正月になり新春がやってきたら、このように梅を招きながら、楽しい時間を過ごそう。

 

shousetukaiun.hatenablog.com

 

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共産主義が政治から切り離されるべきカルトである理由

 

マキャヴェリズムは政治を宗教から切り離した。
そもそも全ての教条主義から政治は切離されるべきだろう。
教条とは「独善の世界」だから、「独善」を教義とする共産主義が「君主論」(16世紀)以前の野蛮な理論になってしまったことは明白だ。

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その説明をしておこうと思う。

もちろん、マキャベリズムについては世の大家が説明しているので私の出る幕はない。

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

 3.なぜ共産主義は独善的か。 

 上記を私なりに説明してみよう。

 

 

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

世の中には、人類誕生から現代までの時間と地球という人類の住む広大な空間を無視して、自分たちの文明のもつ価値観だけが至上の存在であると位置づけ、それを実現しようとする人々がいる(しかしその理想は絶対に実現できない)。彼らは、その実現不可能な社会を理想とし、その価値観を維持する(他者が歴史と共に蓄積した経験則を過小評価するか無視する)ために取り決めたルールを他者に強要しようとする。

 

これを「独善」という。その価値観を「教条」という。

 

つまり、彼らが、人類の生物学的限界を無視しているにも拘らず、これが人類(文明人)共通の価値観だとして押し付ける、その価値観を「教条」といい、その押し付けるエネルギーを「独善」という。

 

更に換言すれば「教条」とは「独善的価値観」のことである。

 

教条の性格・性質のひとつは、世の中の多面性と異種の共存共栄という視点の決定的欠如だ。「味方・敵」や「支配・被支配」「搾取・被搾取」「富・貧困」「純血・穢れた血」「善・悪」「白・色」「光・闇」「文明・野蛮」「正統・異端」という徹底した二面論的価値観が支配する世界観がそれだ。「右でなければ左」、「左でなければ右」という発想の事だ。

 

 一旦、教条が世の中(脳内)を支配し始めると、その社会では事実や真実を見極める事より、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業が優先される。自己正当性の確認作業だ。それが教条「独善的価値観」第二の性格・性質である。私は、ここに至った社会を全体主義移行社会と呼び、そこでおこなわれる自己正当性の確認作業を全体主義ファシズム)と定義する。

 

 そして、その確認作業は自己の正当化のために行われるため、その集団や社会に必須のものとして強迫観念化する。自己正当性の確認作業は強迫観念化する。その集団や社会の存在を維持のために必須であるから、その脅迫観念化も必然である。結果として、その脅迫観念がその集団や社会を支配する段階まで続けられ、さらに教条を強化する。つまり、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する全体主義社会の完成である。

 

 

 2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

この説明は簡単だ。

人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神(の子)のうつし身でとして作られた」。

だから、人が理論に基づき理性を働かせ社会を変革さえすれば、「人間の情動全てがコントロールできる」。

そのような妄想を抱いた人々によって作られた妖怪が共産主義ということだ。人間が神の代わりに社会悪を定義して、それを罰しようとすれば独善は避けられない。

 

#マルクス
妖怪生みの親。妖怪が殺人を好む人類の敵になることを知らずに世を去る。理想の実現に独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その誤謬を歴史が実証した後も狂信者は絶えず、彼らによって思想をアヘン化(教条化)することには成功した。

 

#共産主義

平等公正を理想とするが、平等の実現を力で強制するため、結果として平等や公正さを「指導」する行政官が平等や公正以上のものを手に入れ特権支配階級化する社会が誕生する。その階級の既得権維持のため暴力や拷問が正当化される。

 

独裁は、その性格上(一旦、教条化した思想が社会を支配してしまえば、自分たちの正義、つまり独善、を実現するために、一番簡単で確実な方法だから)個人崇拝もまた必然的である。人類は世に共産主義を標榜する国家が現れるたびごとに、個人崇拝と思想の教条化がおこなわれることを目撃してきた

 

共産党員と呼ばれる「平等や公正さを取り仕切るはずの行政官」は、ヒエラルキーのトップに君臨する共産党委員長という「個人の権力(独善)への奉仕者であり、自己の地位を高め、あるいは維持するために共産主義の一層の教条化を進める「カルト信者」と化してしまう。

 

独善的教条社会(教条が支配してしまった社会)では、社会の現実と目指すべき理想とのギャップは、洗脳と暴力によって埋められ、党員と呼ばれる支配者層は事実よりも、捏造や取締りによってもたらされる成果や利益を互いに競うことで独裁と独裁者に貢献することとなる。

 

事実や成果は証拠によって証明されるのではなく、主張や強引な「こじつけ」によって捏造される社会が出現する。


捏造による矛盾の解消は、それを指弾しようとする者を粛清することによって行われる。だから、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する


民衆の不満は、内外に反革命分子や分離主義者、帝国主義軍国主義等々、様々なレッテルを貼られた「敵」を捏造することで逸らされる。このため共産党には、常に「敵」の存在が必要とされる。自分たちの価値観に沿って動いていない者は全て「敵」と判断される。自己正当性の確認作業のせいである。周りの全てが敵だからこそ独善は機能するのだ。

 

共産主義の教条化は上記のようにいたるところにその存在を発見できる。

 

30万人虐殺の南京や「統一中華」や「中国の夢」で語る領土領海の広大さ等々、共産主義者が荒唐無稽な作り話が好きなのは、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業=自己正当性の確認作業のせいである。

それは自国民弾圧時の被害の過小さにも表れている。天安門事件や天津大爆発、チベットウイグルでのジェノサイド等だ。自己正当化の確認作業の結果としてもたらされた被害は常に過小評価され、得られた利益は過大評価されて来た。自己正当化が正当化のための正当化だからだ。

 

これらは、教条主義のなせる業であり、カルト思想独特の独善という世界観のせいである。

共産主義も教条として政治から切り離されるべきだ。カルト性(独善性)はどの宗教より強力で有害だ。

 

3.なぜ共産主義は独善的か。

聖典の世界観から逃れられないマルクスによって作られたのが共産主義。そこでは神を否定するが「人が神に代わる」。だから「独裁」が必要。また、聖典が善悪二面論だから、善の勝利のために階級闘争は必須となる。
共産主義の唯我独善の世界観はカルトそのものだ。平成31(2019)年1月28日のメモ。

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マルクス共産主義は、人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神のうつし身(神の子)として作られた」という善悪正邪二面論的世界観の支配する聖典の社会に生まれた「無神論的人間理性崇拝」の一形態だ。

そう、ダーウィンが進化論で聖書に記された天地創造を否定したように、「科学」を用いて、社会の矛盾が次の社会を生み出すという、擬似進化論的社会進化を論じたはずのマルクス無神論者であるはずのマルクスは、ついに自分が生まれ育ったユダヤ社会の聖典旧約聖書に描かれた善悪二面論的精神世界を越えることはできなかったのだ。

 

だから、人が理論に基づき理性を働かせて社会を変革すれば理想郷が生まれ、そこでは「人間の情動全てがコントロールできる」と考えた。そのような空想(妄想)を抱いたマルクスが作った妖怪が共産主義といえる。人が神に代わるのだ。神を否定したうえで。だから「独裁」が必要なのだ。また、善悪二面論だから階級闘争も必要となるのだ。実際には、階級闘争の手段として、その帰結として、階級を指導するとされる独裁者や特権階級を産みだしてしまうにも拘わらずだ。

理想社会建設と言う目的のために手段を厭わない独善。嘘や暴力、抑圧や殺人を自己正当化し恥じることのない妖怪が誕生する。その事すら正当化してしまう。それが共産主義だ。

そこでは、階級闘争は神の率いる天使と悪魔の戦いを、共産党の指導による労働者・農民と資本家・帝国主義との戦いに模しているだけなのだ。

 共産党の指導が絶対正義のように扱われ、その指導に反する者たちを「敵」と断じて苛酷な扱いが出来るのは、聖典の善悪二面論の世界で神を演じているからなのだ。演じるのは妖怪と化した人である。

 

マルクスは、人類史上最悪の殺人妖怪を生み出して世を去ったが、理想の実現に(人が神に代わる)独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その矛盾が歴史上で幾度も実証された後も狂信者は絶えず、自らの空想をアヘン化(教条化)することには成功したと言える。

そう、宗教はアヘンと言い、神を否定したはずのマルクスは、ついに科学となるべき自身の思想を実証できないカルト教祖と化したのだ。

  

つまり、マルクスが生んだ共産主義は空想から宗教へ、さらに宗教からカルトヘと思想を変質させたことは、社会「科学」的に間違いないだろう。

 

上記のベースになっているのは下記の過去のブログ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

kaiunmanzoku.hatenablog.com

市場原理で脱原発 2012年のブログを再ブログする

日本のエネルギー自給率は8.3%、しかも化石エネルギー依存度は93.6%。安全保障上も環境保護上の観点からも電力政策は抜本的に改革されるべきだ。

再エネ付加金を止めて代わりにCO排出課金制度を創設し、電源ごとに価格設定して、消費者がその割合を選択できるようにすべきだと提言したい。

以下は、2012年のブログの再ブログと最新のエネルギー白書に触れたもの。

+++++

原発依存度の数値目標は馬鹿げている、送発電を分離し、電力の自由化を進めて、家庭や企業で自分たちが利用したい発電エネルギーを選択できるようにすれば市場原理で脱原発ができる。

脱原発化石燃料を経済的に凌駕するものをつくりだせば達成できるのであるから、まず、エネルギー源間の市場競争を促すべきである。また、そもそも現在の電源構成をベースにして電気料金を一方的に押し付ける制度は利用者の権利を奪っている。利用者にエネルギー源を選択できる権利を付与すべきである。それには送発電を分離し、電力の自由化を進めて、家庭や企業で自分たちが利用したい発電エネルギーを選択できるようにすればよい。

下記は例示であるが、

a.原子力電源の電気料金=原子力発電料金+廃炉費用復興助成金

b.LNG・石炭等の化石燃料電源の電気料金=化石燃料発電料金+炭素税

c.水力発電の電気料金=水力発電料金+地元対策費

d,風力発電の電気料金=風力発電料金+鳥類保護対策費開発助成費

e.太陽発電の電気料金=太陽発電料金+土地買収助成費開発助成費

f.地熱発電の電気料金=地力発電料金+国立公園及び泉源維持管理費

g.その他(バイオマス、水素、太陽熱、潮力、波力、etc)

a〜gの混合比での料金体制を数種類用意してもよいし、利用者に選ばせればせてもよい。立地等で割当量に限りのあるものは需要と供給の原理で高くなるかもしれないがそれも市場の論理である。

例:我が家の電力=a 20% + b 20% + c 0% + d 10% + e 20% + f 20% + g 10%

ニーズがあれば色々なエネルギー源をベースとした新しい発電所を作る業者も多く誕生するだろう。その業者からも直接購入ができるようにすればよい。

この際、一切の電源地域対策に類する費用を公開しその費用を電力料金に上乗せし、国家予算や財政投融資枠から切り離すことが、公平な競争を促すことと考える。

発電を事業とするものは市場で売れるエネルギー源を使った電気を発電しようと心がけるであろうから、国民の支持・不支持により自然淘汰的に脱原発が可能になるだろう。


例えば、反原発派の人々は、当然、高くてもクリーンなエネルギーを選ぶだろうし、そうでない人は原発エネルギーを含む選択肢を選べばよい。

石油危機で火力発電だけに頼れないと歴史的経験を持つ日本にはエネルギー安全保障の面からバランス良く選武べきだと考える人もいるだろう。

野鳥保護を重視するバードウォチャーは風力発電を避けてエネルギー源を選択すればよい。

ダムの建設が河川の自然に脅威を与えていると思う人は水力発電を除いたエネルギー。

とにかく安ければよいというのなら、原発オンリーの選択も良いだろう。

温暖化防止のためにCO2の削減を国際公約した国民として、温暖化による水没が危惧される太平洋の島々へ配慮をしたい人もいるだろう。

燃料の大部分を輸入しなければならない現状を考えシーレーン防衛のコストとエネルギーコストの比較を考える人もいるだろう。

主人公は国民である。市場原理で脱原発を可能にしてくれる政策を政府は実行すべきである。


技術立国で輸出産業が社会を支えている、産業、特に物づくりの空洞化が問題となっている日本。

高齢化が進み年金制度、保険制度を支える基盤となる若者の労働力が心配な日本。

財政悪化で税制を見直さねばならない日本。

問題を多く抱える日本でエネルギー問題が反原発原発推進かの二つの選択肢で語られ、数値目標だけが先行するのは間違っている。

もう一度言う、脱原発は経済的な競争で化石燃料をつかったエネルギー源を凌駕するものをつくりだせば達成できる。 送発電分離と家庭や企業に自分たちの使うエネルギー源の選択ができる制度を導入し、市場原理を用いて、政策的に脱原発を誘導すべきである。

国際的責務を果たせる先進国、自由国家、技術立国、途上国の頼れる支援国家が日本の立ち位置である。

日本が築いてきた信用と安心感を失う選択は、全て間違っている。

 

上記は下記の再ブログである。

shousetukaiun.hatenablog.com

 

参考:

「平成29年度エネルギーに関する年次報告」(エネルギー白書2018)より 第2部 第1章 第1節 エネルギー需給の概要 3項 エネルギー供給の動向

3.エネルギー供給の動向
我が国のエネルギー需要は、1960年代以降急速に増大しました。それまでは、国産石炭が我が国のエネルギー供給の中心を担っていました。その後、国産石炭が価格競争力を失う中で、我が国の高度経済成長期をエネルギー供給の面で支えたのが、中東地域などで大量に生産されている石油でした。我が国は、安価な石油を大量に輸入し、1973年度には一次エネルギー国内供給の75.5%を石油に依存していました。しかし、第四次中東戦争を契機に1973年に発生した第一次石油ショックによって、原油価格の高騰と石油供給断絶の不安を経験した我が国は、エネルギー供給を安定化させるため、石油依存度を低減させ、石油に代わるエネルギーとして、原子力天然ガス、石炭などの導入を推進しました。

また、イラン革命によってイランでの石油生産が中断したことに伴い、再び原油価格が大幅に高騰した第二次石油ショック(1979年)は、原子力天然ガス、石炭の導入をさらに促進し、新エネルギーの開発をさらに加速させました。

その結果、一次エネルギー国内供給に占める石油の割合は、2010年度には、40.3%と第一次石油ショック時の1973年度における75.5%から大幅に低下し、その代替として、石炭(22.7%)、天然ガス(18.2%)、原子力(11.2%)の割合が増加するなど、エネルギー源の多様化が図られました(第211-3-1)。しかし、2011年に発生した東日本大震災とその後の原子力発電所の停止により、原子力の代替発電燃料として化石燃料の割合が増加し、近年減少傾向にあった石油の割合は2012年度に44.5%まで上昇しました。

 

 

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資源エネルギー省 エネルギー白書2018より

一次エネルギー国内供給に占める化石エネルギーの依存度を世界の主要国と比較した場合、2015年の日本の依存度は93.6%

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資源エネルギー庁資料 主要国の化石エネルギー依存度(2015年)



4.エネルギー自給率の動向
国民生活や経済活動に必要な一次エネルギーのうち、自国内で確保できる比率をエネルギー自給率といいます。我が国では、高度経済成長期にエネルギー需要量が大きくなる中で、供給側では石炭から石油への燃料転換が進み、石油が大量に輸入されるようになりました。1960年度には主に石炭や水力など国内の天然資源により58.1%であったエネルギー自給率は、それ以降大幅に低下しました(第211-4-1)。

石炭・石油だけでなく、石油ショック後に普及拡大した天然ガスは、ほぼ全量が海外から輸入されています。2014年度は原子力の発電量がゼロになったこともあり、過去最低の6.4%に低下しました。

2016年度は再生可能エネルギーの導入や原子力発電所の再稼働が進み、エネルギー自給率8.3%となりました。

 

東日本大震災前には、20%に伸びていたエネルギー自給率は2014年に6.4%、その後8.3%にまで回復した。

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資源エネルギー庁資料 一次エネルギー国内供給構成及び自給率の推移

 

北朝鮮被害者対策委と在日コリアン弁護士協会の歴史観をメモしておく

朝鮮日本軍性奴隷・強制連行被害者問題対策委員会(被害者対策委)声明

 

平壌3月1日発朝鮮中央通信
朝鮮日本軍性奴隷・強制連行被害者問題対策委員会(被害者対策委)は、3・1人民蜂起があった時から100年になることで1日、声明を発表した。

1919年3月1日、日帝の極悪非道な植民地支配に対するわが人民の恨みと憤怒はついに、全民族的な反日抗争で爆発した。

わが人民の反日闘争に恐れおののいた日帝は、軍隊と警察をはじめ暴圧武力を総動員して無差別な殺りく戦を繰り広げて3カ月間だけでも7500人余りを虐殺し、1万5900人余りを負傷させ、4万6900人余りを検挙、投獄した。

「朝鮮独立万歳!」を叫んだとして7歳の少年の口を刀で裂いて殺し、平和的デモを先導したという理由で16歳の乙女の頭皮をはぎ、八つ裂きにして殺すなど、日帝の殺りく蛮行はそれこそ野獣の狂乱、殺人鬼の横暴であった。

声明は、今も無この朝鮮人民が流した鮮血が地に深く染み込んでおり、恨みと憤怒に満ちた蜂起者の喊声が連綿と響き渡った山野にこだましていると指摘した。

また、3・1の恨みだけでなく、40余年の毎日毎日、日帝がわが国と朝鮮民族を地球上から全滅させるために働いたあらゆる悪行の苦痛はたとえ、それに対する贖罪があったとしても決して、容易に忘れたり、癒えるものではないと明らかにした。

そして、にもかかわらず、日本は過去を誠実に反省し、清算しないまでも、被害者の傷に灰をまき、歴史の正義に刃物を入れ、過去の犯行に劣らないあらゆる悪行を働いていると暴露した。

声明は、過去の罪科を認定も、反省も、賠償もしていない日本が再侵略の夢を見ているということは火を見るより明らかだとし、次のように強調した。

日本の過去清算問題に対するわれわれの立場と意志は、確固たるものである。

たとえ百年、千年が流れるとしても、日本は過去にわが民族に与えた全ての被害と苦痛に対してはっきり謝罪し、賠償しなくては、決して無事ではいられない。

世紀をまたいで積んできた日本の歴史的罪悪を総決算して、わが民族の血の代価を必ず払わせるであろう。

ーーー

 

 


在日コリアン弁護士協会(LAZAK)設立趣意書


「日本国家は、在日コリアンが19世紀後半から20世紀前半にわたる日本の朝鮮半島に対する侵略と併合により日本における生活を余儀なくされた存在であるにもかかわらず、戦後もその責任を全うせず、むしろ一貫して、在日コリアンが固有の民族として矜持をもって日本社会で生きていくことを否定し、日本社会に同化させるかさもなくば排除するという政策を堅持してきた。
 このような同化・排除政策は、基本的には現在も踏襲されており、在日コリアンの尊厳は尊重されず、その多くは日本の政治過程から排除されたままである。かかる状況を放置する日本の政府、国会、裁判所の三権の責任は厳しく問われるべきである。」

ーーー

 

 

日本の朝鮮半島に対する侵略と併合の罪は戦後70有余年を経て清算されていない。その責任は問われるべきだというが、彼らが「過去」や「排除」と主張するプロパガンダに与するわけにはいかない。

 

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MEMO 法の支配 反天皇活動をする判事の存在はなぜ許されないか

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【法の支配 反天皇活動をする判事の存在はなぜ許されないか】

 

成文化された法のほかに、人間社会には明文の法以上のものが「法」として存在している。時に自然法と言われるもので、その社会を成り立たせる「規範」である。

 

一般に、社会の秩序が脅かされる時に「それをしてはいけない」「こうあるべきだ」という「規範」が人々の心に意識される。これらの中には、実定法として定められるものもある。たとえば、個人の生命や自由を奪う刑罰については、その行使は国家権力に委ねられ、明文によってあらかじめ罪となるべき行為とその罰が定められていなければならないが、すべての「規範」が明文法として存在しているわけではなく、不文法として意識されているものや、意識されていないものも多い。自然法と言われるものだ。

 

たとえば、それは人の理性によって「発見」されてきた。

 

社会には「〇〇すべし」あるいは「〇〇すべからず」という規範というものがある。ある規範が明文になっていないからと言って、それを根拠薄弱だとして実定法の下に置いてはいけない。人の理性に基づく規範の創出は、社会の秩序を維持するため、社会をよりよくするために存在する。不文律は社会で当たり前に存在する。皆が従っていて不都合が生じていない(時間と空間がそれを許している)から不文律であるというだけの話だ。不都合が生じれば不文律は実定法として明文化されるであろう。

 

簡単に言えば、「(実定)法に触れなければ何もやっても良い」が許されないのは何故か、という問いに対する答えでもある。

 

まず、 歴史の中で育んできた文化観が社会を成り立たせている事を理解せねばならない。その文化的価値観が作り出して来た道徳や伝統や宗教や習俗を無視した行動や破壊する企てが問題にならない時空間が危機に見舞われる時に、はじめて「それをしてはいけない」「こうあるべきだ」という「規範」が人々の心に意識され、それが(実定法として定められ)実体化する。それまでの間「規範」は存在しなかったのではなく、「厳として存在」してはいたが「意識されていなかった」だけである。皆が従っていて不都合が生じていなかった(時間と空間がそれを許していた)から不文律であっただけなのだ。

 

これら「意識されていない」が「厳として存在」する「規範」にも我々は従わねばならないはずだ。

 

これが「法の支配」の本質である。

 

日本人の文化的価値観に「潜在的に存在」する「〇〇すべし」あるいは「〇〇すべからず」という規範(法)は、日本社会の存続に有効不可欠なものである。

 

であるから、その規範が明文法であろうとなかろうと(とは言え、そのような規範は最初は不文律であろう)、日本人が現在までに、その歴史と文化に基づいて獲得した権利義務の価値観(法)に拠っているのだから、統治する者も統治される者も従うべきなのである。

 

そこに権利の衝突や利害を調整すべき矛盾が生じるなら議会によって新たに明文法が制定されねばならない(生命や身体の自由を奪う刑法において罪刑法定主義が最重要なのはこれが理由である)。

 

憲法は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために」「この憲法を確定する」「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と前文で謳っている。

 

日本人の文化的価値観(法)が何ものかによって脅かされるなら、国民の代表を通じて、明文法を定め「法」に対する脅威を排除すべきだ。そう思う。

 

他人に対する敬意、特に年長者に対する敬意。弱者に対する配慮。信仰や崇拝の対象物への慮り。歴史的文化的価値観の尊重。人間としての尊厳。社会としての尊厳等々。

 

人間社会は明文法と不文法を問わず、それらの「規範」によって秩序が維持されている。

それらの「規範」は、施政者も被施政者も従わねばならない社会を統べる(法)である。

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以上は、「判事が『反天皇制』活動 集会参加、裁判所法抵触も」というニュースに接し、伝えたいと思ったことをFBに投稿したもの。いずれ、法治と法の支配の区別もつかない世の中の法律家に判るように纏めたいのでメモとしてブログにあげておくこととした。

三種の神器承継の精神は、日本社会に有効不可欠なものとして「厳として存在」する日本人の文化的価値観、規範である。それが明文であろうとなかろうと統治する者も統治される者も従うべき「法」なのである。

www.sankei.com

 

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