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尖閣  斎鯤「東瀛百詠」に「雞籠山過中華界」の記載 意味:雞籠山(現在の台湾の基隆市)で中華界を通過する

問: 1895年から  は  領です。では、それ以前は何処の領土でしょう? 

答: 無主地です。 詳細は下記をご覧ください。

 

下記は 斎鯤 「東瀛百詠」 の一部分である。全文は次のwebで読める。

【斎鯤 (Zhai Kun )は、嘉慶13年(1808年)に琉球に赴いている。なお、在日中華人民共和国大使館が『釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠』として、正史である斎鯤に同行した沈復(太史司筆硯)の「記事珠」の記述を挙げている*。「記事珠」については、このblogの下の方を参照していただきたい】

http://books.google.co.jp/books?id=Xh7IWSMXbccC&hl=ja&pg=PT50#v=onepage&q&f=false

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 さて、上記の 斎鯤 「東瀛百詠」 文中の赤線部分に注目して欲しい。

 

雞籠山-中華 

釣魚台ー絶島 

赤尾-連黄尾參差島嶼

黒溝洋-大海無中外渾然劃一溝

姑米山-琉球

 

としている。

 

中華》と琉球》の間 に注目して欲しいのだ。

 

これは、中華界と琉球界の間に無主地の概念があることを示していないだろうか。

ここで注目すべきところは、「東瀛百詠」を渡海吟の先まで、もう少し読み進んでいくと、「雞籠山中華界」と記していることである。

 

斎鯤の一行は、雞籠山(現在の台湾の基隆市)で中華界を通過すると言っているのである。「過」、すなわち「過ぎる」とは「通ること」、「渡ること」、「行き過ぎること」だ。

つまり、斎鯤のこの時代、雞籠山(現在の台湾の基隆市)までが中華界でそこを過ぎると中華界ではないと認識されていたのだ。

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これは、 

 

雞籠山中華 China文化・皇帝の威光の及ぶ範囲 をぎる

釣魚台ー絶島(無主地) 

赤尾-連黄尾參差島嶼分(無主地)

黒溝洋-大海無中外渾然劃一溝(無主地)

姑米山-此山入琉球 この島からは琉球王の統治が行われている範囲である

馬歯山-山為琉球門戸 この島は琉球の入り口の門である

 

ということで、中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界)が存在していると言う概念を当時の大陸人が持っていたことを強く示唆している。

 (この点の詳細については、いしゐのぞむ氏始め、その先達の研究や論文に明らかであると思われるので、今後彼ら専門家の主張を私なりにご紹介できればと思っています)

 

中華界を過ぎ琉球界に入るまでの「人為や王権の及ばぬ世界」は、冊封使にとって誌を吟ずるに値する世界でもあった。

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蛟龍窟、電光雹響、黒溝(海にある溝(みぞ)で代々の冊封使琉球への道筋に海水が落ち込んでいる黒い溝が存在すると信じていた)、混沌、黿鼉(大きな亀)、馮夷海若(海神)、百霊、神光等の言葉が並んでいるのがお分かり頂けると思う。琉球に向かう斎鯤にとって、最も恐ろしくまた興味深い領域であったと推測される。

この記述こそ、中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界 = 無主地)の存在を際立たせていると言える。

つまり、斎鯤の時代の中華とは雞籠山までなのである。

 

しかも、それは大清一統志の記載と一致しているのである。

欽定大清一統志(清の乾隆帝 の勅命で編纂された地理書)の台湾府の説明がなされている巻の文面には台湾府の北端が雞籠城(現在の基隆)であると記されている。

台湾府の北端である雞籠城と雞籠山が琉球に向かう進路において清の最東端であるからこそ、斎鯤は「雞籠山過中華界」と記した。

中華界(雞籠山)を過ぎてから、琉球界に入るまでは、いずれの王の権力も及ばぬ世界で、大魚や海神の支配するところである。

中国政府が尖閣諸島は台湾の付属島嶼であると力瘤を入れて主張しているにも拘らず、尖閣諸島は基隆(雞籠城や雞籠山)から、北東に約170キロも離れており、清代、斎鯤のこの時代に「台湾府の一部ではなく、ましてや、中華界(中華帝国皇帝の統治)の内ではない」と認識されていたと言うことになる。

 

おまけに鄭成功がオランダ人を追い出すまでは、台湾は日本領だったと大清一統志は記している。つまり、明代の台湾府(台湾島澎湖諸島)は先住民の住む「東蕃地」(左ページ赤線部参照)オランダ人の支配する「紅夷地」、日本人(倭寇)の支配下にもなったという土地である。明代には大陸の王権(中華の威光)は台湾島にすら及んでいなかったのである。

 

清朝が台湾の北端の雞籠城や雞籠山まで統治できるようになったのは、雍正元年(1723年)に彰化縣と淡水縣が設置されてからである。そのことも記されている。

つまり、雞籠山が中華界になったのは、早くとも雍正元年(1723年)以降である。中華の盟主である大清は中華帝国を最大版図にした後ですら、ついに台湾全土を支配下におさめた事実はないのである。まして、1895年以前に北東に約170キロ以上も離れた海域に散在している尖閣諸島が中華の王権の下に治められていたという事実があろうはずがない。

  

欽定大清一統志?卷三百三十五~卷三百三十六

http://archive.org/stream/06059744.cn#page/n2/mode/2up

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この大清一統志に付属の地図でも(中国の主張によれば台湾の付属島嶼であるはずの)尖閣諸島は描かれておらず、東北端は雞籠城である。このことは、大清一統志台湾府の付属島嶼として澎湖諸島が描かれている事実と対照的である。澎湖については上記の台湾府の説明文にも名を見ることができる。

 

地図で台湾の地図が西半分の沿岸線しかないのは、西岸線のみが清の台湾府を構成する支配地であって、山脈の向こう側である東半分に清の支配権が及ばなかったからである。

 

欽定大清一統志?卷三百三十四

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古典史料で中華の東端と琉球の西端との間が無主地だとする認識を最初に出したのは喜舍場一隆氏「尖閣諸島の沿革と歸屬問題」、「海事史研究」20號、昭和四十八年四月。明瞭な最初はいしゐのぞむ氏「和訓淺解 尖閣釣魚列島漢文史料」p82とp113。(本件は いしゐのぞむ氏より、ご教授いただいた)

また、雞籠山と同時に齊鯤の久米島をならべたのは今年(2012年)4/1正論五月號の下條正男氏が最初とのこと。(これも、いしゐのぞむ氏より、ご教授いただきました)

「 中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界 = 無主地)、特に人為や王権の及ばぬ世界という表現を使って無主地の認識を説明したのは私が最初かもしれません。

【人為や王権の及ばぬ世界としての無主地】

蛟龍窟、電光雹響、黒溝(海にある溝(みぞ)で代々の冊封使琉球への道筋に海水が落ち込んでいる黒い溝が存在すると信じていた)、混沌、黿鼉(大きな亀)、馮夷海若(海神)、百霊、神光、天后(媽祖)、白燕大如鷗等の不可思議な現象と力が作用する世界を表現する言葉こそが、中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界)、すなわち 無主地の存在を示していると考えられる。

 

下記は いしゐのぞむ氏の八重山日報への記事である。

非常に感銘したので、ご紹介します。

▼陳侃(ちんかん)の三喜
 尖閣を熟知するのは琉球人であった。その代表が、最古の記録、西暦1534年の「陳侃の三喜」である。明國の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏(おそ)れた。そこに琉球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだ。一喜である。次に琉球から迎接船が入港したので、先導船になると喜んだ。二喜である。次に迎接船が針路役及び水夫を派遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出た。三喜である。明らかに琉球人のお蔭で尖閣を記録できたと分かる。琉球人のもてなしの心が記録から溢れてくる。以後の歴代記録でも常に琉球人に賴り切りだった痕跡が、そこかしこに見られる。我々は「陳侃三喜」を四字成語としてひろめて行きたいものだ。長崎純心大学  八重山日報  

 

なお、本ブログを書くにあたっては、いしゐのぞむ氏の著書やアドバイスから豊富な示唆を受けたことをお伝えするとともに、感謝をいたします。

 

なお、私の過去のブログ http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946 も参考としてどうぞ。こちらの過去のブログは当時あちこちから記事を抜粋して編集しているので出典元に迷惑をかけていると思われます。専門家のご指摘とご指導をお待ちします。

 

中共が奉じる動かぬ証拠「記事珠」も明確に尖閣が無主地であると言っている

++(この赤字部分は副題として2013/7/3に追記した)++

下記はご参考です。笑ってはいけません。中共にへつらうご用学者達が中共に協力して作り上げた「学説」なんですから・・・(*^^)v

*釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠「記事珠」ー在日中華人民共和国大使館のHPより(2012/09/24)

http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/diaoyudao/qita/t973313.htm

***********************************記事引用***************************************** 

釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠「記事珠」 24日から北京で展示(2012/09/24)

 

   北京の保利芸術博物館で24日から「釣魚島の主権を示す動かぬ証拠及び国宝大展」が開催されている。開催は10月8日まで。その中でも、釣魚島に対する中国の主権を示す動かぬ証拠である「記事珠」が、特に人々の注目を集めている。

 

   清代の嘉慶年間の墨跡(原本)「記事珠」には以下のことが記されている。嘉慶13年(808年)、大清王朝琉球国王を封じる聖旨を発した。同年2月18日、正使斉鯤(太史)、副使費錫章(侍御官)、学者沈復(太史司筆硯)らが北京を出発した。同年閏5月2日、かれらは福建を出発、2隻に分乗して琉球王国に向かった。

 

   「記事珠」は次のように記している。

5月11日、一行は五虎門を出発した。東を一望すると、無限の海が広がり、海水は深い緑色をしていた。5月12日、淡水を通過した。5月13日の辰の刻、「釣魚台が見えた。筆立てのような形をしていた」。14日早朝、姑米山がかすかに見え、琉球の境界を越えた。15日の午の刻、はるか彼方に「みずち」のような形をした琉キュウ(扎の部首を虫に)(琉球の古い名称)が見えてきた。

 

######上記の説明の為「記事引用」から離れる###### 

【漢文】(至十一日, 始出五虎門, 向東一望,滄茫無際,海水作蔥綠色,漸遠漸藍。十二日,過淡水。十三日辰刻,見釣魚台,形如筆架, 遙祭黑水溝,遂叩禱於天后, 忽見白燕大如鷗,繞檣而飛,是日即轉風。十四日早,隱隱見姑米山,入琉球界矣。十五日午刻,遙見遠山一帶,如虬形,古名琉虬,以形似也……)

######「記事引用」から離れる・・・ここまで######

 

   関係者は、この部分の記載は、中国が釣魚島に対して主権を持っていることを示す動かぬ証拠である、との考えを示した。文字記載によると、沈復らは嘉慶13年5月13日の辰の刻に釣魚台(釣魚島)を見、そのあとで天后(媽祖)を祭り、黒水溝(中流海溝)を通過し、14日早朝、姑米山を見ながら琉球の国境を越えた。

 

   国家文物鑑定委員会の傅熹年主任委員は次のような考えを示した。この記述は、釣魚台(釣魚島)が当時から中国の海域内にあったことを物語るもので、琉球の国境から1日の航行距離にあったが、琉球にも、日本にも属していなかった。中国人が釣魚島に対して主権を持っていることを示す文字記載が記している嘉慶13年(1808年)は、日本が発表している「古賀辰四郎」が釣魚島を発見した1884年より76年も早い。

 ***********************************記事引用終わり***************************************** 

 

「記事珠」の訳文については石井望氏の赤本「尖閣釣魚列島漢文史料」中の「冊封琉球国記略」を参考願いたい。

私には五虎門を出る時点で「向東一望,滄茫無際,海水作蔥綠色,漸遠漸藍」とは、空が見渡す限り青いのに、海の色が変わって行くということに、中華界を去って行くという不安と一抹の淋しさ、旅情というものを文章が伝えているように思われる。

また、その後の記載も、釣魚島が見え、遙かに遠く黒水溝を祭り、そのまま天后(媽祖)に対して膝を折り敷いて祈りをささげた(石井望氏の訳)とある。そして、そのような祭祀の結果、白燕大如鷗(カモメのような大きな白い燕)が現れたり、その日に風向きが変わったりする。

これらの現象は、斎鯤が感じたと同様に、中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界 = 無主地)独特の不可思議な現象であり、無主地の「人為や王権の及ばぬ世界」を際立たせている文である。

 

いずれにせよ、沈復(太史司筆硯)も斎鯤と一緒に使節団として同じ船に乗っていた者として、同じ景色を見て、同じ思いを共にしたことが、ここで記されているのである。沈復(太史司筆硯)もまた斎鯤と同様に、中華界の外界としての「魚釣島」(大清に属していない釣魚島とその不思議)を認識していたということだ。

そして、大清一統志の台湾府図の淡水港の位置を見れば、沈復の言う「十二日,過淡水」とは、斎鯤の「雞籠山過中華界」と同じ意味(=過中華界)で記していると解釈するしかない。

++(この赤字部分は2013/7/3に本文に追記した)++

つまり、「記事珠」に於いても当時の魚釣島は「琉球にも、日本にも、大清にも属していなかった」と書いているのである。

「記事珠」が 釣魚島 に対する主権を示す動かぬ証拠、という 中国 の主張はそもそも無理があるし、斎鯤の文章の表現「雞籠山過中華界」とその傍証から見ても、根拠を失ったと言える。

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【参考】尖閣諸島 大陸の歴代政権はどう認識していたか

http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946

 

2013年10月12日加筆; 

1801年にロンドンで出版された地図・・・The Eastern Hemisphere. London: Published by J. Cary, Engraver & Map-seller, No. 181, Strand, August. 1, 1801. 

地図の意味と解説については別途発表予定である。

ちなみに、地図の出版年の1801年は記事珠の出来事があった嘉慶13年(1808年)より7年前である。

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2016年12月15日 『「 中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界 = 無主地)、特に人為や王権の及ばぬ世界という表現を使って無主地の認識を説明したのは私が最初かもしれません。』の一文を追加した。

 

2017年6月13日 「中華界と琉球界の間」を強調するため色分け、太字、《》、_ 等を付け加えた。

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