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History / Senkaku 尖閣 中共が奉じる動かぬ証拠「記事珠」も明確に尖閣が無主地であると言っている

この記事は2012-12-19の私のブログ 

History / Senkaku 尖閣 斎鯤「東瀛百詠」と大清一統志 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

の記事中に参考として載せたものと同一内容です。同じ記事は上記のリンク中でも読めます。

今回は、主に検索の便の為に独立した記事として再掲載するものです。

 

*釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠「記事珠」ー在日中華人民共和国大使館のHPより(2012/09/24)

http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/diaoyudao/qita/t973313.htm

***********************************記事引用***************************************** 

釣魚島に対する主権を示す動かぬ証拠「記事珠」 24日から北京で展示(2012/09/24)

 

   北京の保利芸術博物館で24日から「釣魚島の主権を示す動かぬ証拠及び国宝大展」が開催されている。開催は10月8日まで。その中でも、釣魚島に対する中国の主権を示す動かぬ証拠である「記事珠」が、特に人々の注目を集めている。

 

   清代の嘉慶年間の墨跡(原本)「記事珠」には以下のことが記されている。嘉慶13年(1808年)、大清王朝琉球国王を封じる聖旨を発した。同年2月18日、正使斉鯤(太史)、副使費錫章(侍御官)、学者沈復(太史司筆硯)らが北京を出発した。同年閏5月2日、かれらは福建を出発、2隻に分乗して琉球王国に向かった。

 

   「記事珠」は次のように記している。

5月11日、一行は五虎門を出発した。東を一望すると、無限の海が広がり、海水は深い緑色をしていた。5月12日、淡水を通過した。5月13日の辰の刻、「釣魚台が見えた。筆立てのような形をしていた」。14日早朝、姑米山がかすかに見え、琉球の境界を越えた。15日の午の刻、はるか彼方に「みずち」のような形をした琉キュウ(扎の部首を虫に)(琉球の古い名称)が見えてきた。

 

######上記の説明の為「記事引用」から離れる###### 

【漢文】(至十一日, 始出五虎門, 向東一望,滄茫無際,海水作蔥綠色,漸遠漸藍。十二日,過淡水。十三日辰刻,見釣魚台,形如筆架, 遙祭黑水溝,遂叩禱於天后, 忽見白燕大如鷗,繞檣而飛,是日即轉風。十四日早,隱隱見姑米山,入琉球界矣。十五日午刻,遙見遠山一帶,如虬形,古名琉虬,以形似也……)

######「記事引用」から離れる・・・ここまで######

 

   関係者は、この部分の記載は、中国が釣魚島に対して主権を持っていることを示す動かぬ証拠である、との考えを示した。文字記載によると、沈復らは嘉慶13年5月13日の辰の刻に釣魚台(釣魚島)を見、そのあとで天后(媽祖)を祭り、黒水溝(中流海溝)を通過し、14日早朝、姑米山を見ながら琉球の国境を越えた。

 

   国家文物鑑定委員会の傅熹年主任委員は次のような考えを示した。この記述は、釣魚台(釣魚島)が当時から中国の海域内にあったことを物語るもので、琉球の国境から1日の航行距離にあったが、琉球にも、日本にも属していなかった。中国人が釣魚島に対して主権を持っていることを示す文字記載が記している嘉慶13年(1808年)は、日本が発表している「古賀辰四郎」が釣魚島を発見した1884年より76年も早い。

 ***********************************記事引用終わり***************************************** 

 

「記事珠」の訳文については石井望氏の赤本「尖閣釣魚列島漢文史料」中の「冊封琉球国記略」を参考願いたい。

私には五虎門を出る時点で「向東一望,滄茫無際,海水作蔥綠色,漸遠漸藍」とは、空が見渡す限り青いのに、海の色が変わって行くということに、中華界を去って行くという不安と一抹の淋しさ、旅情というものを文章が伝えているように思われる。

また、その後の記載も、釣魚島が見え、遙かに遠く黒水溝を祭り、そのまま天后(媽祖)に対して膝を折り敷いて祈りをささげた(石井望氏の訳)とある。そして、そのような祭祀の結果、白燕大如鷗(カモメのような大きな白い燕)が現れたり、その日に風向きが変わったりする。

これらの現象は、斎鯤が感じたと同様に、中華文明(皇帝)や琉球王の権力の及ばない世界(いずれの王によっても統治されていない世界 = 無主地)独特の不可思議な現象であり、無主地の「人為や王権の及ばぬ世界」を際立たせている文である。

 

いずれにせよ、沈復(太史司筆硯)も斎鯤と一緒に使節団として同じ船に乗っていた者として、同じ景色を見て、同じ思いを共にしたことが、ここで記されているのである。沈復(太史司筆硯)もまた斎鯤と同様に、中華界の外界としての「魚釣島」(大清に属していない釣魚島とその不思議)を認識していたということだ。

そして、大清一統志の台湾府図の淡水港の位置を見れば、沈復の言う「十二日,過淡水」とは、斎鯤の「雞籠山過中華界」と同じ意味(=過中華界)で記していると解釈するしかない。

++(この赤字部分は2013/7/3に本文に追記した)++

つまり、「記事珠」に於いても当時の魚釣島は「琉球にも、日本にも、大清にも属していなかった」と書いているのである。

「記事珠」が 釣魚島 に対する主権を示す動かぬ証拠、という 中国 の主張はそもそも無理があるし、斎鯤の文章の表現「雞籠山過中華界」とその傍証から見ても、根拠を失ったと言える。

 

【参考】

尖閣諸島 大陸の歴代政権(中国)はどう認識していたか - kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事

 

2013年10月12日加筆; 

1801年にロンドンで出版された地図・・・The Eastern Hemisphere. London: Published by J. Cary, Engraver & Map-seller, No. 181, Strand, Augst. 1, 1801. 

地図の意味と解説については別途発表予定である。

ちなみに、地図の出版年の1801年は記事珠の出来事があった嘉慶13年(1808年)より7年前である。

 

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上記の地図に関するブログはこちら

http://kaiunmanzoku.hatenablog.com/entry/2015/11/19/15450

 

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