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【国民主権(国民の総意)を実現するための権力の使い方】
憲法が国家権力の抑制手段として働いていることは、憲法学者に言われなくても知っている人が多いだろう。
しかし、これを一般的な憲法の目的だとするのは間違いである。
ここで言う憲法は国民主権が謳われている日本国憲法であって、他の憲法(欽定憲法)ではないことに注意しなければならない。
たとえば、欽定憲法の代表であるルイ18世によるCharte constitutionnelle de 1814 フランス1814年憲章(フランス憲法)では、「フランスの全権は国王一身にある(L'autorité tout entière (réside) en France dans la personne du Roi)」とされ、この憲章により国王は「神聖不可侵(inviolable et sacrée)」とされ、すべての法律および行為はこの憲法の条項を尊重しなければならないとされているが、憲法は国王が授与したものであることから、すべての法律および行為は国王一身の下に位置するものとされている。
大日本帝国憲法においても同様であるが、こちらは日本人なら既に学んでいるし、すぐに調べられるので説明は割愛する。
欽定憲法と異なり、国民主権の思想に基づき、国民が直接に、または国民から選挙された議会を通じて制定された(ことになっている)日本国憲法は、民定憲法の体裁を取っている。
要は、主権者が変わったこと(誰であるか)が重要なのである。
さて、日本国憲法が、国家権力が好き勝手しないように歯止めをかけ、国家権力の暴走から国民の自由を守っている事実について述べよう。
国家権力の暴走から国民の自由を守る力や根拠(これを権原と言います)はどこにあるのでしょうか。
結論から言えば、この権原は国民主権に由来しているのであって、憲法の目的がそこ(国家権力の抑制手段そのもの)にあるのではないことを理解しなければならない。
「国民主権を守るために国民の基本的人権が尊重される」。
それと同様に「国民主権を守るために国家権力が抑制されている」=「国民の基本的人権を守るために国家権力が抑制されている」
と言っても良い。
だから当然、国民の総意を実現するためにこそ権力は用いられるということが大前提にある。目的実現のための抑制であって、抑制が目的ではないのだ。
そして、国民の総意は選挙で選ばれた国民の代表を通して実現されると日本国憲法の前文の一番最初に書いてある。これは国民主権の宣言なのだ。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し(略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」
国民の意思が国家権力の権原であるとの宣言。それこそが日本国憲法であるとはっきりと書いてある。何人もその権原を侵してはならないと言っているのだ。
つまり、その権力の行使に制限を加えることが出来るのは国民の意思のみである。
国民の意思として示された目的実現のための抑制であって、抑制が目的ではないのだ。