語彙力は多いほど良い。物事の本質をとらえる能力が大きくなるからだ。
なぜなら、芸術という例外を除き、語彙で表せる概念こそがこの世の森羅万象を(この世で考えられ、表現できる限りという前提条件であれば、あの世すらも)表現することができる道具だからだ。
我々凡人が語彙に表せない物事も直感でその本質を捉えられる天才が往々にいる、それをそう感じ取れたが故に天才は天才と呼ばれるのだろう。だがそういう天才ですら、芸術という方法を除いては、その感動や才能や発見や主張を語彙を豊富に語ることなければ、人々にその成果を伝えるのは甚だ難しい。
天才の業績が、その分野に関心のない人々に、分かりづらいのはそのせいと思う。
天才も含め、世の人々に伝えられる事柄というのは、芸術を除いて、多くは言葉を介したものでしかない。凡人は凡人の言葉で表現しうる範囲で真実や真情を語るのみだ。人は自分自身と同じで誰でもそんなに感受性や感情に置いて変わりはないと信じていてすら、自分の伝えたい真実や事実、感情や思いを人に伝えるのは困難だ。
だからこそ、ある言語を学んでその民族の文化や道徳観に触れることが出来るという経験は非常に貴重だ。
豊富な語彙で真実や真情の大きさや深さを伝えられることは、色形も様々で大小いろいろな器を持っていることに似ている。
その反対に、ある民族が、芸術を生み出せず、言葉も貧弱ならば、文化も歴史も貧弱にならざるを得ないだろう。器の種類も大きさも少ないがゆえに、真実や心情も伝えがたいものとなるからだ。
そして、その民族の社会はパターン化した教条と過激な儀式に支配されるだろう。教条と儀式は集団共通の感動や感情を共有する道具である。豊富な語彙で真実や真情の大きさや深さを伝えられないなら、器の代わりに音や行動で代用するしかないではないか。
それはつまり、喜怒哀楽とその情緒の強弱を、大小の音や行動で表現して伝えようとするということだ。客人歓迎のダンスであったり、勝利と服従の儀式がその典型だ。
困るのは、彼らが他の豊富な語彙を持つ、それゆえにダンスや儀式なしにコミュニケーションをとる民族と接する時だ。貧弱な語彙しかない彼らが豊富な語彙を受け止めようとすれば、器の種類も大きさも少ないがゆえに、ものによってはあふれ出てしまうし、漏れ出してしまう。
つまり、他民族と共有しえる感情に齟齬を生じてしまう。共通の尺度で物事を推し量れない事態になるということだ。外交で物事が進まない国というのは、そういう国々の事だ。
共通の尺度を何か(できれば同じ歴史的文化的意味を持つ語彙や記号)で共有出来なければ社交が難しいのは、一個人でも、ムラ社会でも、国家でも同じである。
他者を貶める事、共通の敵を持つことのみを仲間同士の唯一の共通の物差しとする人々の集団には外の世界をもっと自由に体験することが必要だと言いたい。