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教条主義:独善という世界観

平成29(2017)年12月12日に、思いついたことをFacebookにこう書きこんだ。

 

マキャヴェリズムは政治を宗教から切り離した。
そもそも全ての教条主義から政治は切離されるべきだろう。
教条とは「独善の世界」だから、「独善」を教義とする共産主義が「君主論」(16世紀)以前の野蛮な理論になってしまったことは明白だ。

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その説明をしておこうと思う。

もちろん、マキャベリズムについては世の大家が説明しているので私の出る幕はない。

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

の二つを説明すれば足りると思っている。

後は自明だ。

 

実は、この二つについては私のブログのあちらこちらで書いてあることであり、これからも書いていくことだろう。だからごく簡単に書くことにする。

 

 

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

世の中には、人類誕生から現代までの時間と地球という人類の住む広大な空間を無視して、自分たちの文明のもつ価値観だけが至上の存在であると位置づけ、それを実現しようとする人々がいる(しかしその理想は絶対に実現できない)。彼らは、その実現不可能な社会を理想とし、その価値観を維持する(他者が歴史と共に蓄積した経験則を過小評価するか無視する)ために取り決めたルールを他者に強要しようとする。

 

これを「独善」という。その価値観を「教条」という。

 

つまり、彼らが、人類の生物学的限界を無視しているにも拘らず、これが人類(文明人)共通の価値観だとして押し付ける、その価値観を「教条」といい、その押し付けるエネルギーを「独善」という。

 

更に換言すれば「教条」とは「独善的価値観」のことである。

 

その性格・性質のひとつは、世の中の多面性と異種の共存共栄という視点の決定的欠如だ。「味方・敵」や「支配・被支配」「搾取・被搾取」「富・貧困」「純血・穢れた血」「善・悪」「白・色」「光・闇」「文明・野蛮」「正統・異端」という徹底した二面論的価値観が支配する世界観がそれだ。「右でなければ左」、「左でなければ右」という発想の事だ。

 

 一旦、教条が世の中(脳内)を支配し始めると、その社会では事実や真実を見極める事より、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業が優先される。自己正当性の確認作業だ。それが教条「独善的価値観」第二の性格・性質である。

 

 そして、その確認作業は自己の正当化のために行われるため、その集団や社会に必須のものとして強迫観念化する。自己正当性の確認作業は強迫観念化する。その集団や社会に必須であるから、その脅迫観念化も必然である。結果として、その脅迫観念がその集団や社会を支配する段階まで続けられ、さらに教条を強化する。つまり、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する

 

 

 2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

この説明は簡単だ。

人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神(の子)のうつし身でとして作られた」。

だから、人が理論に基づき理性を働かせ社会を変革さえすれば、「人間の情動全てがコントロールできる」。

そのような妄想を抱いた人々によって作られた妖怪が共産主義ということだ。

 

#マルクス
妖怪生みの親。フランケンシュタイン博士に例えられる。妖怪が殺人を好む人類の敵になることを知らずに世を去る。理想の実現に独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その誤謬を歴史が実証した後も狂信者は絶えず、彼らによって思想をアヘン化(教条化)することには成功した。

 

#共産主義

平等や公正さを理想とするが、誰かが平等を強制しなくてはならないため、平等や公正さを取り仕切るはずの行政官が特権支配階級として、平等や公正以上のものを手に入れることになる社会を誕生させる思想。平等で公正な体制維持のためにしばしば暴力や拷問が正当化される。

 

独裁は、その性格上(一旦、教条が支配してしまった社会となっては、一番簡単で確実な方法だから)個人崇拝と思想の教条化は必然的である。世に共産主義を標榜する国家が現れるたびごとに人類はそれを目撃してきた。

 

共産党員と呼ばれる「平等や公正さを取り仕切るはずの行政官」は、ヒエラルキーのトップに君臨する共産党委員長という「個人の権力への奉仕者であり、自己の地位を高め、あるいは維持するために共産主義の一層の教条化を進める「カルト信者」と化している。

 

独善的教条社会(教条が支配してしまった社会)では、社会の現実と目指すべき理想とのギャップは、洗脳と暴力によって埋められ、党員と呼ばれる支配者層は事実よりも、捏造や取締りによってもたらされる成果や利益を互いに競うことで独裁に貢献することとなる。

 

事実や成果は証拠によって証明されるのではなく、主張や強引な「こじつけ」によって捏造される社会の出現である。


捏造による矛盾の解消は、それを指弾しようとする者を粛清することによって行われる。教条主義者の集団や社会は必ず過激化する


民衆の不満は、内外に反革命分子や分離主義者、帝国主義軍国主義等々、様々なレッテルを貼られた「敵」を捏造することで逸らされる。このため共産党には、常に「敵」の存在が必要とされる。

 

共産主義の教条化は上記のようにいたるところにその存在を発見できる。

 

30万人虐殺の南京や「統一中華」や「中国の夢」で語る領土領海の広大さ等々、共産主義者が荒唐無稽な作り話が好きなのは、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業=自己正当性の確認作業のせいである。

それは自国民弾圧時の被害の過小さにも表れている。天安門事件や天津大爆発、チベットウイグルでのジェノサイド等だ。

 

教条主義のなせる業であり、カルト思想独特の独善という世界観のせいである。

共産主義も教条として政治から切り離されるべきだ。カルト性(独善性)はどの宗教より強力で有害だ。

 

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