今日(平成31年1月2日)も京成幕張駅前の昆陽神社に詣でてみたが、相変わらず参拝者は少ないようだ。ということで、参拝者が少しでも増えることを祈り、 再ブログして、芋神様となられた青木昆陽先生、またの名を甘藷先生に感謝の気持ちを捧げたいと思います。
+++++++以下は過去のブログのコピー++++++++
平成30(2018)年1月3日に散歩を兼ねて幕張から検見川神社まで初詣した。
その時の覚えを兼ねて土地の歴史を記しておく。
京成千葉線の京成幕張駅のすぐ近くに、金網のフェンスに囲まれた一角があり、「昆陽先生甘藷試作之地」と刻まれた記念碑が建っている。
下の画像は、スマホで撮影した記念碑だが、フェンス越しで距離が10mくらいあり、文字を判読できない。背景が民家(アパート)のため見所としても興を削がれる。
フェンスのすぐそばにある説明
千葉県指定史跡と書いてある。
青木昆陽は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の時代に南町奉行・大岡忠相に取り立てられた。
徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を青木昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。
画像の説明書きにある通り、この馬加村のみで栽培に成功した。
「種芋17個から2石7斗6升の収穫を得ることができた」
青木昆陽甘薯試作地/千葉県 (参考)
この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明、天保と続く大飢饉の時にもサツマイモによって多くの人が救われ、昆陽神社も建てられた。昆陽神社は火の神の秋葉神社の地に隣接し、青木昆陽は、「芋神様」として今も土地の人々から尊敬を集めている。
やがて、サツマイモ栽培は全国へと普及していく。
天保年間にはサツマイモから作る飴も近隣の検見川で製造されたという。
また、茨城県名産の干し芋も昆陽の成功なしには存在しない。
青木昆陽ゆかりの昆陽神社
京成幕張駅すぐそばという便利な所だが、正月三が日にも拘らず人影が殆どなかった。
鳥居に昆陽神社と書いてある正面の拝殿は実は秋葉神社、その右にあるのが昆陽神社。
青木昆陽は昆陽神社では「芋神さま」として祀られている。
甘藷先生は、日本を飢饉から救った大恩人です。江戸時代の飢饉だけではなく、昆陽が関東でサツマイモの栽培に成功していなければ、先の大戦時とそれに続く戦後の食糧難時に日本人の餓死者は膨大な数に上っていたことでしょう。
青木昆陽の墓所は国指定史跡となっており、東京目黒の瀧泉寺(目黒不動尊墓地)にある。目黒不動尊では、毎年10月28日に「甘藷祭り」が行われるとのことだ。
千葉県の奮起を求めたい。
付け足し:京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。
画像は歩行者用の「幕張昆陽地下道」
昆陽神社に隣接する秋葉神社
秋葉神社は、火伏せの神。
カグツチは、イザナギとイザナミとの間に生まれた神で、イザナミから生まれ出てくる際に、火の神であるがゆえにイザナミに火傷を負わせ、それが原因でイザナミが死んでしまう。そのことに怒ったイザナギが十拳剣(とつかのつるぎ)で首を刎ねる。という物語で知られています。また、そのカグツチの亡骸や血から様々な神々が生まれ出たことも有名です。
死んでしまったイザナミは京成幕張駅の隣駅の検見川駅近くにある検見川神社で祀られています。