多くの「ほ」(幡)を持つ山幸彦。
「ほ」とは「日」、「火」、「穂」等の音のことだ。
多くの幡を持つ神という意味の「八幡神*1」を示唆しているのだろう。
火袁理命《ホソリノミコト》
天津日高彦火々出見尊《アマツヒコタカヒコホホデノミコト》
天津日高彦穂々出見尊《アマツヒコタカヒコホホデノミコト》
火折彦火火出見尊《ヒオリヒコホホデミノミコト》
火々出見尊《ホホデミノミコト》・・この(ホホデノミコト)の名は神武天皇の実名と同じ
虚空津日子《ソラツヒコ》
また、一方で、天照大御神が祀られる伊勢神社と神功皇后は、どちらも「じんぐう」と呼ばれる。
そして、大隅正八幡宮縁起に、「筑前国に『香椎聖母大菩薩』として祀られる、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子(八幡)を生んだ陳大王の娘」として伝えられている大比留女(おおひるめ)と神功皇后は、どちらも聖母(しょうも)と呼ばれる。
そして、日光によって孕んだ娘から生まれた伝説を持つ阿加流比売*2(あかるひめ)を妻とし、その妻が生まれ故郷に帰るのを追って日本の但馬に来た新羅王子、天之日矛の子孫であると伝えられているのが神功皇后だ。
火袁理命(山幸彦)から神武天皇へと繋がる古事記の記載が、わたつみの国、東シナ海を意識させるのに対し、神功皇后と応神天皇の親子の宇佐神宮由緒は朝鮮半島と北九州や山陰を意識させる話となっている。
共通点は、八幡神(とその母)が海から上陸したこと、母が海の向こうの有力者の縁者であること、母や母の支持者の力を借りて西日本から近畿を平らげた事であろう。
神武天皇と応神天皇が同一人である必要はない。物語に温度があるとは言わないが、火袁理命(山幸彦)から神武天皇へと繋がる古事記の記載が南九州の太陽と海に相応しい温感を持つのに対し、仲哀天皇から応神天皇までの古事記の記載は日本海と北九州の海風を感じさせるからだ。あきらかに似たような記憶が留められたとは思うが、似た記憶は時空を同じくするとは限らない。
過去というものは現在までの体験で書き換えられる。人の一生の中ですら既視感はしょっちゅうあるのだ。
過去の英雄に例えられたい、例えたいと願う当時の英雄やその子孫や民衆が、異なる主人公に、場所と時間を与えて、似たエピソードを生み出したと考えたい。
伊勢神宮内宮の池を泳ぐ錦鯉 筆者撮影