学習指導要領改定案で聖徳太子の呼称を「厩戸王」に変えた問題について、文部科学省へパブリック・コメントを届けた。
聖徳太子は、推古天皇を摂政として蘇我馬子(大臣=おおおみ)とともに支えた実在の人物だ。
法隆寺釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框の墨書「辛巳年八月九月」が621年を意味し、当時「上宮法皇」は仏教保護者に相応しい称号といえる。
画像は下記のWikipediaから、赤線はその画像に加筆した。
法興元丗一年 歳次辛巳十二月、鬼
前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
趣旨:上記のWikipediaから引用
「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」
▼誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土・悟りに至ることを祈念している。光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。
「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」の「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)であり、歳次でいう辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。また、聖徳太子の生前の祈願(上宮法皇枕病弗悆)であると記載されている事実からも、翌年の2月22日に太子が亡くなったとき「上宮法皇」として尊敬されていたことは明白だろう。
上記を理由として、文科省のパブリックコメント:意見募集中案件に意見を述べて置いた。
+++++提出意見欄記載内容+++++
《法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」と記載されることこそ、「聖徳」と贈名されるに相応しい事実であろうと思います。
621年当時「上宮法皇」とあがめられている人物が「厩戸王」という名で歴史教科書に登場するのでは、仏教保護者として果たされた業績にそぐいません。》
当時、仏教保護者として「上宮法皇」と言う称号を得ていた人物を「厩戸王(うまやどのおう)」と呼称することは、聖徳太子が仏教の布教に果たした役割を伝えきれないと感じる。
この一事をとっても、日本史上もっとも大切な人物として長年位置づけられてきた聖徳太子のその呼称を否定し、「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばせるという方針は、承服しがたいというのが私の思いである。
文科省への意見は下記から提出できる。 意見・情報受付締切日は 2017年03月15日まで
2017年2月23日 「光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。」の一文を付け加えた。