【沖縄とヤコウガイ&日本本土と東ユーラシア江南地方との交流の歴史】
日本書紀に、「多禰の人」、「掖玖の人」、「阿麻弥の人」の表現が一つ所に同時に出てくるのは天武天皇の章だ。
日本書紀を通じると
「掖玖」屋久島・推古24 (616)、
「多禰」種子島・天武6 (667)、
「阿麻弥」奄美大島・天武11 (682)、「海見嶋」としては斉明3(657)、
の順で出現する。
この事実は、日本人の祖先が南西諸島を南下していく過程を表しているのだろう。
また、「掖玖(ヤク)」の呼称については、平螺鈿背八角鏡など、正倉院の宝物にも螺鈿として用いられているヤコウガイが、古代「夜久貝」「夜句貝」「益救貝」「屋久貝」などと称されていた事は有名だ。
古代における日本人の南西諸島での交易活動も考察に入れねばならないだろう。
「ヤク」の呼称が現在の屋久島を指すようになったのは7世紀以降であるが、しかし7世紀初期以前の「ヤク」は奄美地域を含む広大な範囲を示す言葉であったと考え、その時代の「ヤク」を以て「ヤクガイ」の名前が成立したとする見解がある。ヤコウガイは、螺鈿や酒盃などとして、日本本土で多く消費されているその供給地としての役割があったとされる (高梨修『ヤコウガイの考古学』 140-152 抜粋)
それに、日本本土と東ユーラシア江南地方との交流の歴史がある。
応神37 (西暦不詳) 呉(くれ=中国江南の地)に使いを遣って、服飾の工女を求めようとした。使いは高麗(こま=高句麗)に行って案内を頼んだ。高麗王は二人の案内人を付けてくれたので呉に行くことが出来た。呉王は4人の工女を与えてくれた。
仁徳58 (425?)呉国と高麗が朝貢してきた。
この時代に日本人は東ユーラシア江南地方へ関心を抱いていたという記録だ。掖玖の人の存在が記録される数百年前に、日本の西南に交易対象国があると知っていた意味を考える必要があるかもしれない。
これらの傍証の下に、古代日本人が西南諸島を南下したと考えるのは、自然なことだと思う。
ヤコウガイから作られた古代の貝匙。小湊フワガネク遺跡出土。