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History / 古代日本と琉球 海彦(海佐知)と山彦(山佐知)の物語を解釈する

大昔の九州で

山を生活の場にしていたグループと

浜辺を生活の場にしていたグループがいた。

もともと一つの部族であったが、すでに米を主食とし農耕を行っていて何世代も経ち、部族の人口が増えていくにしたがって、部族はいくつかの集団に別れていった。

だから、移り住んだ土地や食物の嗜好等の違いによって、また、農閑期の労働の違いによって、それぞれの集団のリーダーが異なってくるのも止む終えなかったのだろう。

 

 古事記における海彦(海佐知)と山彦(山佐知)の兄弟の話は、そういう時代の話だろう。

 

そして、もともと一つの部族であったからこそ、海と山のグループの間でリーダーシップの激しい争いが生じたに違いない。

海のグループと山のグループは争いをしながらも、一方で平和を望んでいたのも間違いがない。山のグループでは銅を用いて様々な道具を作ることもできたから、和睦のために剣を溶かして釣り針を生産し、海のグループに貢ぎ物として贈ることで、和平を請うこともあったかもしれない。

だが、海のグループは漁師であり、剽悍で、武を好んだため、貢ぎ物で戦果を妥協する必要はないとする強硬派が多くを占め、彼らが和平を阻害したかもしれない。

山のグループのリーダーは一計を案じ、鹿児島の造船と操船技術に秀でた一族の長老の策を用い、軍兵の乗り込みをカムフラージュできる竹籠を内部構造として持つ船を作ってもらい、道案内も付けてもらい、海へと、南の島の遠い血縁者に軍事力を借りようと少人数で南に向かったことだろう(1)

その島は、わだつみの国と呼ばれ、海神、またの名を豊玉彦(2)が支配するところであった。

山のグループのリーダーは島の王に血縁者一族であり、また、自分たちのグループに協力することがわたつみの国に利益があることを示すために、一族の証である(勾)玉を内密に琉球王に見せる手続きを踏む必要があったのだろう。

琉球王は、その玉を見て天津神の一族から分かれた同族からの同盟の使者であることを確信したに違いない。

山のグループのリーダーは、なおも誠意を示すために、協力して島の統治にも協力したことだろう。その過程では、海のグループと交易関係を結んでいた島の部族を(銅製の釣り針を証拠に)突き止めることで、琉球王の権威が脅かされる可能性を伝え、王の信頼を得たのだろう。鯛の喉とは鯛と呼ばれる部族が生活していた洞窟かもしれない。

 

王との共同の利益を指摘し、信頼を得た山のグループのリーダーは琉球と同盟を結び、二人の武将と兵団を借り、当時の超高速船で故郷に戻り、海のグループを屈服させたに違いない。

高速船の船長(シオツチノオジの一族だろう)には短刀を感謝のしるしとして授けた。

 

琉球王は娘を今やヤマトの王となった同盟国の山幸彦に嫁がせる(3)

やがて子鵜萱草萱不合命)ができると琉球王とヤマトの王は、二人とも琉球とヤマトの両方を支配する名目が出来たと考えたのだろう。琉球王は兵を満載した大船(4)をヤマト王のところへ遣り、ひと戦起こそうとしたがことが発覚し、ヤマト王が海岸を去ったため、望みを達することはできなかった。

こうして、豊玉姫はヤマトから琉球に戻り、両国の同盟関係が一旦は途絶えた。

だが、次代のヤマト王(鵜萱草萱不合命)の后として、再び琉球王の娘(5)が嫁ぐ。国交の回復である。

 

ヤマト王(鵜萱草萱不合命)と玉依姫の間に4人の子が生まれ、そのうちの一人である末っ子が初代天皇となる神武天皇神倭伊波礼比古=カムヤマトイワレビコだ。彼は海軍も運用できる。琉球との交流が既に国の財産となっていた証拠だ。

そして、次男がこの物語では重要だ。

この稲冰命=イナヒノミコト(6)が、琉球に帰ることでヤマトとわだつみの国との正式の交流は、その後回復することなく途絶えたと思われる。記録が絶えてしまうのだ。

この二人の登場で、もう一度、山佐知と海佐知が誕生していることに気付いてほしい。

古事記では、歴史の繰り返しがいくつか語られている。

神武天皇と同じ名を持つ登場人物がこの物語に登場していることにも、気が付いてくれればうれしい。私は、神武の東征が、九州の部族がシオツチノカミの仲立ちによって同族である琉球王と同盟することで成功したことを物語として残したのが海彦(海佐知)と山彦(山佐知)の話ではないかと考えている。(この下線部の一文は平成31(2019)年1月30日に付け加えた。)

 

 

 海幸彦と山幸彦の物語は、こちらか、その下ででどうぞ

元の神話を忘れてしまった人や知る機会のなかった方は下の方が良いと思います。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 

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++++++++++++++++++++  注 釈 ++++++++++++++++++++

1. シオツチノオジを別名「事勝国勝長狹神」と呼ぶのは戦いの帰趨を決した役割を何度も演じたからだろう。海岸に住む古い部族「鰐」の一員であり、その代表格(長)で、潮流だけでなく、戦いの帰趨すら読める戦名人だったのだろう。潮流に乗って、わたつみの国と交易も行い、日本海流に乗って因幡や東北、沿海州、瀬戸内海や黒潮に乗って伊勢や熱田、安房や小笠原列島の方まで進出していたに違いない。全国の「鬼(woni)」伝説に関係しているのだろう。先祖に猿田彦が関係していると考えている。

2. 豊玉彦豊玉姫の「豊」は、「礼」の旧字体である「禮」で知られるように lai lei また、古語では li という音を持つ。

そして、「玉」は gjoku gyoku であるとともに、「球」に通じ kyu であることに不思議はない。

つまり、「豊玉」は Laigyoku Leikyu Likyu と強く「琉球」Ryukyu を連想させる言葉である。

3. 大隅八幡宮の「大隅八幡宮縁起」によると、
震旦国(中国)の陳大王の娘・大比留女**(おおひるめ)は、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る」とある。山幸彦は別名を虚空津日子《ソラツヒコ》である。「そらつひこ」と呼ばれる読みの「虚空津日子」には、「うつほ」と読める「虚」「空」「空津日」が存在する。
空船(うつほぶね)の「ほ」が「日」、「火」、「穂」を想起させる。また、その「ほ」がたくさんあることは、多くの「ほ」(幡)を持つ人***という意味の「八幡」を連想させる。ということで、山幸彦は空船(うつほふね)に乗ってやってきた母子と結びつく名を持っていることになる。「うつほ」は、おそらく「倭的日(海)wotsuho(わだつみ)」を暗示する文字であろう。いずれにせよ、山幸彦が海神(わだつみ)の国から日向(ひゅうが)奇日の国(くしひのくに)へ戻ってくるという話は、古代日本人(山幸彦という正当な日本人)が空船(巨木をくりぬいた船)で南からやってきたことを強く示唆している。虚空津日子=コウツホノコ(古倭的海の子)とすればわだつみの子孫だ。海洋民族としての日本人も連想可能だ。

4. 「八尋の鰐」がのたうち回るエピソード。

5. 玉依比売。古事記では豊玉姫の妹として記されている。

6. 古事記では、稲冰命=イナヒノミコトは「稲冰命は、妣(はは)の国として、海原に入り坐(ま)す」とある。通説では死んだことになる。だが、母の国は琉球王の国、わだつみの国であり、常世の国でも根の国でもない。

 

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《 参考》

大比留女**(おおひるめ)天照大御神は、別名として大日孁貴(おおひるめのむち)という名を持つ・・・鵜戸神宮の祭神としてその名を確認できる。

 

多くの「ほ」(幡)を持つ人***山幸彦 「ほ」は「日」、「火」、「穂」等だ。

火袁理命《ホソリノミコト》
天津日高彦火々出見尊《アマツヒコタカヒコホホデノミコト》
天津日高彦穂々出見尊《アマツヒコタカヒコホホデノミコト》
火折彦火火出見尊《ヒオリヒコホホデミノミコト
火々出見尊《ホホデミノミコト》・・・これは神武天皇の実名と同じ
虚空津日子《ソラツヒコ》

 

2016年11月4日に緑色部分を追記した

2016年11月16日に紫色部分を追記した

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