過去のブログで、漢委奴国王印(かんのをとこくおうのいん)の注意書きを下記の通り入れた。
《「倭」と「委」は同音である。wo が 「倭」あるいは「委」として、用いられて不思議はない。》と上記に書いたが、「倭」から人偏(ニンベン)「亻」をわざわざ外し「委」として、「倭」を表現した、そのことにもっと注意を払うべきだろう。
この意味は、まだ考察中だが書いておきたいと思うことがある。
「倭」から人偏(ニンベン)「亻」をわざわざ外し、人偏が無くなったことにより、小さく背が曲がった人の意味が薄まり、残ったその形は、実りで首を垂れる稲 が女の上に乗っている「委」である。
女王のもと稲の実り多き国となった邪馬台(ヤマト)国を想像させるではないか。
稲穂を持って、わたつみ(東シナ海)を渡り来た勇気ある人々が、東ユーラシアの覇王に与えられた「倭」という称号を捨て、独立に踏み出したと評価できる象徴的な事件ではなかろうか。
日本各地にある「倭が渡りきた」という意味の種々の「をと」や「倭の砂浜」という意味の「倭沙(宇佐)」の「倭」の文字が全て入れ替わる契機になった可能性もある。
つまり、日本人の対外的自己主張の始まり、日本人の民族意識の芽生えが見られるのではないだろうか。
「倭」から「委」と表記を変えることによって、漢より前に東アジアに覇を唱えた政権にとって「倭」に過ぎなかった日本人が「やまと」を自称できる心理的社会的状況が整ったと思えるのだ。「今後は『Wo』と呼ばせないぞ」と言うことだ。
そういう訳で、自称他称の区別はあったかもしれないが、自国内では漢委奴国王印を
かんのをとこくおうのいん ではなく、
かんのヤマトこくおうのいん と呼んでいた可能性もありそうだと思えるのだ。
2017年1月12日 「女王のもと稲の実り多き国となった邪馬台(ヤマト)国を想像させるではないか。」の一文を加えた。より具体的に記載しておいた方が良いと思ったからだ。