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縄文期から日本列島を海上交易で結ぶ一族がいた 沖縄北谷町で東北の縄文土器

北谷町から東北系土器が見つかりました。 北谷町公式ホームページ

日本を起源とするこの時代の土器は、 これまで鹿児島県の奄美大島や徳之島などで見つかっていますが、沖縄で見つかるのは初めて

https://www.chatan.jp/haisai/rekishi/bunkazai/oohorakeidoki.images/hirabiseki.jpg

https://www.chatan.jp/haisai/rekishi/bunkazai/oohorakeidoki.images/oohora2.gif

縄文時代晩期(約2500年前)の東日本の大洞系(おおほらけい)土器の可能性が高い。

www.okinawatimes.co.jp

 

www.nikkei.com

上記の日経の記事のテキストをコピーしたのが次の文章

縄文時代晩期(三千~二千数百年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる土器片が、沖縄県北谷町の米軍返還地にある平安山原B遺跡で出土したと24日、同町教育委員会が明らかにした。

 沖縄での発見は初めてで、西日本でも出土は限られている。製作地や沖縄に運ばれた背景を巡り、大きな議論を呼びそうだ。

 北谷町では、縄文時代にアクセサリーとして重宝された、新潟県糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠も別の遺跡から出土。町教委は「当時の広域交流がうかがえる重要な発見」としている。

 亀ケ岡式土器は、沖縄から約2千キロ離れた亀ケ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)で出土したことに由来し、工芸品のような精緻な模様や作りが特徴。同じ頃の東北では精巧な漆器や遮光器土偶なども作られ、「亀ケ岡文化」として各地に影響を及ぼした。

 町教委によると、見つかったのは、浅鉢の台部分で、大きさは縦横約5センチ。全体に工字文と呼ばれる迷路のような模様を線で表現し、装飾のため表面を赤く塗った跡も残っているなど、亀ケ岡式土器の特徴に一致するという。

 2009~10年の発掘調査で、沖縄のグスク時代(11~15世紀ごろ)の耕作土の地層から出土。同じ層からは、縄文時代晩期に相当する約2500年前の沖縄の土器も多く見つかっている。見つかった土器片はこの頃に持ち込まれ、沖縄の土器と一緒に埋まっていたとみられる。グスク時代の耕作の際に沖縄の土器と一緒に入った可能性が高いという。

 北谷町は面積の約半分を米軍基地が占める。遺跡は03年に返還された米軍基地「キャンプ桑江北側地区」などを含む場所で、返還後の宅地開発に先立ち、発掘調査が実施された。周辺でも多くの遺跡が見つかっている。〔共同〕

 

 

因幡の白兎の頃(稲と共に倭が日本列島に渡って来て、居住地を広げ始めていたころ)には間違いなく立派な交易船で行き来していたと信じています。

その仮説の裏付けになればと期待します。

 

私のブログにおける主要関連部分は下記。

淤岐嶋をわたつみの国と考え、和邇(をに)と呼ばれる船と航海術を持っていた一族が交易の担い手になっていた可能性を記載している。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

水門(この みなと)という言葉から、八十神も大大穴牟遲神も、そしてウサギですら水上を移動する手段とその文化を持っていたと推測している

 

kaiunmanzoku.hatenablog.c

 

まとめは解説で

さらに解説で因幡の白兎の謎について語りました。上記の事柄もまとめて記載してありますので、ぜひご覧ください。

天の岩船が猿田彦が案内人で長江付近から北九州・五島列島朝鮮半島に、ウツホフネはシオツチノカミが案内人で長江以南から南九州にたどり着いた。

八十神も大国主(天の岩船グループ)も、そしてウサギ(ウツホフネグループ)は当然水上を移動する手段とその文化を持っていた。その推測の根拠が「水門(みなと)」という言葉だ。船に乗った人から見て門のような地形、役割をしているから「水門」だ。

大国主も八十神も「此水門(このみなと)」まで船を用いてきたのだろう。そして、鰐やら鬼やらとなにやら凶暴な名前で呼ばれれてはいるが、鰐や鮫でも鬼でもないもの達もいただろう。そのもの達は、交易船とそのプロフェッショナルな操り手であった「をに」である。水門という名がある以上、そこに間違いなくいたに違いない。何頭も、あるいは何隻も何人もいただろう。

多くのウツホフネ(菟乍歩伏寝)を連ねて、幾夜となくその船の中で寝起きしながら、わたつみを越え渡って来た種族とその種族の移動を助けた種族は一族だ。「和邇(をに)」とは、「倭である『私』と『貴方』が一体になって日本に『やって来た』」という意味だ。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 

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