収賄の罪などで懲役24年と罰金180億ウォン(約18億円)の1審判決を受けた韓国前大統領の朴槿恵(パク・クネ)被告が、控訴を放棄する意向を表明した。2018年4月16日、聯合ニュースなどが報じた。
福沢諭吉の「朝鮮独立党の処刑」から抜粋引用する下記の1885年の文章ほど、現在の南朝鮮の病状を言い当てた表現はないと思う。
【人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩はこの国を目して野蛮と評せんよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄国といわんと欲する者なり。】
そもそも一国の法律はその国の主権に属するものにして、朝鮮にいかなる法を設けていかなる惨酷を働くも他国人のあえて喙をいるべき限りにあらず、我輩これを知らざるにあらずといえども、およそ各国人民の相互に交際するは唯条約の公文にのみ依頼すべものにあらず、双方の人情相通ずるにあらざれば修信も貿易もほとんど無益に帰するもの多きは古今の事実に証して明に見るべし。
しかるに今朝鮮国の人情を察するに、支那人と相投じてその殺気の陰険なること実に我々日本人の意想外に出るもの多し。ゆえに我輩は朝鮮国に対し条約の公文上にはもとより対等の交際をなして他なしといえども、人情の一点に至ってはその国人が支那の覊軛を脱して文明の正道に入り、有形無形一切の事につき我々と共に語りて相驚くなきの場合に至らざれば、気の毒ながらこれを同族視するを得ず。条約面には対等して尊敬を表するも、人民の情交において親愛を尽すを得ざるものなり。西洋国人が東洋諸国に対し宗旨相異なるがために、双方人民の交際微妙の間に往々言うべからざるの故障を見ることあり、今我輩日本人民も朝鮮国に対しまた支那国に対して自から微妙の辺に交際の困難あるを覚うるは遺憾に堪へざる次第なり。
朝鮮独立党の処刑 福沢諭吉
『時事新報』明治18年(1885年)原文は漢字カタカナ交じり
所蔵:国立国会図書館新聞資料室
以下、Wikipediaによる独立党面々の朝鮮での扱い部分を抜粋
独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった。徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で養子縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄につながれた。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された。
クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうちの徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った。亡命した金玉均は小笠原諸島の父島や札幌など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついには清国の北洋大臣李鴻章を説得するため、1894年(明治27年)3月、上海に渡った。しかし、3月28日、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇によって暗殺された。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、1894年(明治27年)12月忠清道沃川の近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。