平成30(2018)年1月3日に散歩を兼ねて幕張から検見川神社まで初詣した。
その時の覚えを兼ねて土地の歴史を記しておく。
馬加 康胤(まくわり やすたね)の首塚と称される塚に立つ供養塔。
馬加 康胤(まくわり やすたね)は、室町時代前期の武将。千葉氏19代千葉 康胤(ちば やすたね)とも呼ばれる。第14代当主・千葉満胤の次男。居は馬加村と呼ばれた幕張付近にあったそうだ。康胤の最期については、上総八幡(現在の千葉県市原市八幡町)の村田川で常縁に討たれたとされるが不詳。Wikipediaより
従って、この首塚は「馬加康胤の首塚と称される」塚という事になっている。
立派な五輪塔で大事にされているようだ。
「塚」を上り下りする際は落ち葉等で滑り落ちないように注意する必要がある。
享徳の乱において、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立。その結果、京都の室町幕府から支持された上杉氏の追討を受けた足利成氏は鎌倉を追われて下総古河城に入り、古河公方と称した。そのため、下総守護であった千葉氏の元には、幕府と古河公方足利成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。甥の千葉氏当主千葉胤直は幕府の依頼を受けて足利成氏討伐に乗り出すが、馬加(千葉)康胤は足利成氏支援を主張して対立する。これに筆頭重臣の地位を巡る原氏と円城寺氏の対立が絡んで家中は2分される。
享徳4年(1455年)、原胤房は千葉胤直・胤宣父子を亥鼻城に攻め、千田庄(現在の千葉県香取郡多古町付近)へ追いやった。その後、出家していた馬加康胤もこれに合流。
1456年( 享徳5年/康正2年)8月、馬加康胤・原胤房の軍により千田庄の多古城・島城にたてこもる千葉胤直父子や円城寺尚任、援軍にかけつけた大掾頼幹(妙充、満幹の次男又は甥)を攻め千葉嫡流家を滅ぼた。
この報を受けた京都の将軍足利義政は馬加康胤追討の御教書を発し、千葉一族で当時、美濃国郡上郡を本拠にしていた東常縁(とうのつねより)を下総に下らせた。
東常縁は下総国のほかの千葉一族を含む上杉方=反馬加・反原勢力の力を得て馬加城を攻撃。馬加康胤はたまらず馬加城から逃れたが、同年11月1日、上総八幡(市原市八幡)にいるところを急襲され(八幡合戦)、ついに村田川のほとりの林の中で自刃した。享年59歳。
「康胤等今は遁れぬ所と取て返し奮戦の後遂に甲を脱乍立咽を貫きて死す、子胤持又父と共に討死す、康正二年丙子十一月朔なりき、康胤の首は村田川の岸に獄門に懸け後京都に送るといふ。」(『千葉県市原郡誌』)
康胤の首は京都東寺四塚に晒されたともいうが、密かに家臣により盗み出され、この大須賀山に埋められたともいう。康胤の家臣らは、名字官名を捨て、郷侍あるいは百姓となり、付近の村々、海岸近くに移り住み、これを「馬加郷新間宿」と名づけた。1463年(寛正4年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起き、念仏堂を建立。1468年(応仁2年)、大須賀山で「屋形[馬加康胤]の家臣共討死せし人の霊祭供養」を執行したという(以上、「素加天王社」)。
馬加 康胤(まくわり やすたね)の供養塔の五輪の塔の台座部分 寛永年間(江戸時代)の建立。寛永10年は西暦1633年。
供養塔である五輪塔の横にあった石造物ふたつ。
文化文政年間の力士、荒馬紋蔵の供養塔ー 場所: 千葉市花見川区幕張町
上記の荒馬紋蔵の説明書き看板
この辺は「相葉」の苗字が多い。ジャニーズ嵐の相葉君のおうちも徒歩圏内だ。
角界における宮城野 (年寄名跡)は、 初代宮城野錦之助 (最高位関脇)に始まり、荒馬紋蔵が宮城野馬五郎を襲名し部屋持ち親方となったのを二代目としている(Wikipediaより)。
しかし、力士の四股名としての宮城野(四股名)は宮城野里右エ門(最高位関脇)、宮城野錦之助(上記と同一人:最高位関脇)、宮城野丈助(江戸ヶ浦勝右エ門:最高位関脇)に続き、宮城野馬五郎で四代目となるらしい。二枚鑑札(にまいかんさつ)と呼ばれる現役の力士であって年寄を兼務していたとのこと。
また、年寄名跡宮城野を名乗り部屋持ちとなったのは宮城野馬五郎が初めてであるので、現在に続く宮城野部屋は宮城野馬五郎こと荒馬紋蔵に始まったと言える。