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中国史における残酷な虐殺や暴力的な行為が、中国の愛国教育における日本人像に投影されている

ソース: Copilot との会話、 2024/9/29

 

国史における残酷な虐殺や暴力的な行為が、中国の愛国教育における日本人像に投影されている可能性はあります。以下の点がその理由として考えられます。

 

1. **歴史的な残虐行為の強調**:
   - 中国の歴史書や教育資料には、古代から近代に至るまでの残虐な行為が詳細に記録されています。例えば、『資治通鑑』などの歴史書には、生きたまま罪人を切り刻むなどの残酷な刑罰が描かれています*1。これらの記述は、中国の歴史教育において強調されることが多いです。

 

2. **愛国教育の一環としての敵対者像**:
   - 愛国教育では、外部の「敵」を設定することで内部の結束を強化する手法が取られます*2。日本人像が歴史的な敵対者として描かれることで、中国人の愛国心が強化されるという側面があります。

 

3. **心理的投影**:
   - 心理学的には、過去の残虐行為や暴力的な歴史が現在の敵対者像に投影されることがあります。これは、過去のトラウマや集団の記憶が現在の教育やプロパガンダに影響を与えるためです*3

 

このように、中国史における残酷な行為が、愛国教育における日本人像に影響を与えている可能性は高いです。具体的な事例やさらに詳しい情報が必要であれば、お知らせください。

*1: [NEWSポストセブン] 

https://www.news-postseven.com/archives/20150630_328478.html?DETAIL


*2: 中国における愛国主義教育の展開 [J-STAGE

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1990/2008/36/2008_36_25/_pdf/-char/ja

 

*3:【解説】 中国で多発する学校襲撃事件 背景に何があるのか - BBC. 

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-66161298.

宰相肚里能撑船 宰相の腹の中は船を浮かべ竿をさせるほど大きい

宰相肚里能撑船
宰相の腹の中は船を浮かべ竿をさせるほど大きい

一般的には寛大で寛容な人を表わす
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中国の宋の時代、3人の皇帝に仕えた富弼(ふひつ)という宰相がいた。彼は若い頃から度量が広く、寛容であったと記録にある。『宋史』によると、彼は「質素で礼儀正しく、他人に話す時は、たとえ相手が自分より若く社会的地位が低くても、同様に相手を尊重して話した。彼の容貌には落ち着きがあり、恭しく、滅多に怒らなかった。彼の天性は善良で、邪悪を嫌った」


 富弼は他人から罵られても、その罵声は彼の耳に届かなかった。まるで、彼には悪口が聞こえないかのようだった。ある日、隣にいた彼の知人が言った。「あの男は、君を罵っているぞ」。富弼は言った。「たぶん、他の人を罵っているのだろう」。知人は再び、富弼に言った。「あの男は、君の名前を叫んでいるじゃないか」
 「同姓同名の人はたくさんいるよ」富弼は静かに答えた。大きな声で罵っていた男は、富弼の言葉を聞くと静かになった。


 富弼は息子たちにも常に言い聞かせた。「寛容は、多くの問題を解決する。もし正直で高潔で、簡素で飾らず、親切であれば、その人物は何でもやり遂げることができる」


 明の時代の袁了凡は、他人の謗りに対する対処法を書き残している。「もし怒りが爆発する者は、自分に言い聞かせるとよい。全ての人には、欠点がある。時に、人が礼儀に欠けていたとしても、なぜそれに自分が動かされるのか?憤慨する理由など何もない。もし他人の態度が適切でなかったとしても、それは自分の徳が足りないからであり、自分を正して彼に手本を見せればよい」


 もし他人が自分を罵り陰口をたたいても、怒る必要はない。広い空に向かって燃えさかる火も、いつかは消えてしまうものだ。もし、誹謗中傷を受けた時に自分を守ろうとすれば、それはあたかも蚕が絹を吐き出し繭を作り出すように、結局自分をもつれさせ、殻に閉じ込めてしまう。怒りは何も解決することができず、ただ自分自身に害を及ぼすだけなのだ。大紀元

中国のことわざ:宰相肚里能撑船 - シークレット・チャイナ

 


富弼  1004~1083
 洛陽の人。字は彦国。范仲淹の勧めで制科に及第し、しばしば強硬外交論を上書した。 累進して1042年に知制誥・遣契丹使となり、歳幣の増額や割地を拒んで宋の国体を護持して帰国した翌年(1043)枢密副使に進み、欧陽脩らと改革を進めた。 1045年に失脚して知鄆州に出され、1055年に文彦博と与に同平章事とされて政務を総理し、母の喪を挟んで英宗が即位すると枢密使とされ、神宗の煕寧2年(1069)に宰相に復したが、新法に反対して致仕を求めて判亳州に出された。 以後も青苗法の執行に従わず、致仕した後も執拗に新法の廃止を上書した。

 

その他の宰相肚里能撑船関連の民話等

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宋代の宰相、王安石は中年で妻を亡くし、後に嬌娘という妾を娶りました。嬌娘はわずか18歳で、名家の出身で、容姿端麗、音楽、将棋、書画に長けていました。結婚後、宰相となった王安石は朝廷の政務に明け暮れ、家に帰らないことが多かったのです。盛んな嬌娘は空き部屋に一人で住んでいたため、屋敷の若い召使いと情事を起こしました。このことが王安石に報告され、王安石は宮廷に行くと嘘をつき、ひっそりと家に隠れていました。夜、寝室に忍び込んで盗み聞きすると、嬌娘がベッドの上で召使いと戯れているのが聞こえてきました。王安石は怒りのあまり、拳を振り上げて扉を叩き壊し、姦通を捕まえようとした。しかし、この時、「忍」という言葉が彼を強く突き刺し、冷静さを取り戻した。彼は考えを変え、自分は王朝の宰相なのだから、妾のためにこれほど怒るのは無駄だと悟った。怒りを抑えて背を向けて引き返そうとした。すると、庭の大木にぶつかってしまった。見上げると、木にはカラスの巣があった。王安石はふと思いつき、竹竿を手に取ってカラスの巣を数回突いた。カラスは悲鳴を上げて飛び去った。家の中にいた召使たちはその音を聞きつけ、慌てて裏窓から飛び降りて逃げた。その後、王安石は何事もなかったかのように振る舞った。

 

中秋節があっという間に訪れ、王安石は嬌娘を花の前で月見に誘った。三杯の酒を酌み交わした後、王安石は即興で詩を詠んだ。「太陽は東から昇り、また東へ向かい、烏は鳴かず、竹竿は突き刺さり、花は綿蚕を抱きしめて眠り、乾いた生姜は戸の外に置き、聞き耳を立てている。」嬌娘は才女だった。説明を聞かなくても、彼女はすでにこの詩の意味を味わい、召使たちとの情事が主人に知られたことを知った。そのことを思うと、彼女は恥ずかしくなった。しかし、彼女は突然思いつき、王安石の前にひざまずき、詩を詠みました。「太陽は東から昇り南に向かう。あなたはこれを一年も言い続けてきた。裏切り行為に気付かない振りをして。宰相は腹に船を積むことができる。」王安石は熟考しました。彼はすでに60歳、嬌娘は20代前半でした。この情事を彼女のせいにすることはできませんでした。彼は二人の長所を活かすことにしました。中秋節の後、王安石は嬌娘に銀千両を与え、召使と結婚して家を離れて一緒に暮らすことを提案しました。この話は瞬く間に広まり、人々は王安石の寛容さと度量の大きさを称賛しました。「宰相は腹に船を積むことができる」という言葉は度量の広さの同義語となりました。

 

正史によると、王安石は生涯に二人の妻を娶りました。彭寅は子を持たず、呉は一男二女を産みました。非公式の記録によると、彭はかつて王安石に妾を娶らせようとしましたが、拒絶され、離縁されました。呉は名家の末裔で、王安石の遠縁でした。二人は幼馴染で、早くから婚約しました。呉は長生きし、王安石の死後、亡くなりました。王安石が引退した後、二人は海寧で隠居生活を送りました。

 

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三国時代、蜀は諸葛亮の死後、蒋琳を政務に任命した。彼の部下に楊曦という人物がいた。彼は風変わりで寡黙な人物だった。蒋琳が話しかけても、彼は返事をするだけで、返事をしなかった。一部の人々は我慢できず、蒋琳の前で「楊曦はあなたに無関心だ、とんでもない!」と呟いた。蒋婉は穏やかに微笑んで言った。「人にはそれぞれ気質がある。楊曦は私を面と向かって褒めるような性格ではなかった。皆の前で私を批判すれば、私の面目が潰れると思ったからだ。だから彼は黙っていた。実は、そこが彼の真の価値だったのだ。」後日、ある人が蒋婉を「心の広い宰相」と称賛した。

 

夫婦別姓問題 (家庭における「氏」の名乗りについて)

夫婦別姓問題 (家庭における「氏」の名乗りについて)
別の投稿でコメント欄に書いたことをまとめて下記に記しておく


+++++


①法的には、父系あるいは母系を継ぐとする漠然とした氏の範囲をより限定、氏を父系直系親族に限ることとした664年(天智天皇3年)甲子の宣以降 1898年(明治31年)以前の《姓氏を持つ家に生まれた》女性は、《必要がある時と場合に》父の氏を名乗っていました。そして、一般庶民階層では男女を問わず姓氏の名乗り自体があまり重要ではありませんでした。


つまり664年以降、夫婦間にできた(同一戸籍上の)子供の氏がバラバラになることはなかったし、戸籍上の氏も問題にならなかったのです。


②上で述べた通り、日本史を通じて、法的には夫婦別姓でしたが、姓や氏を名乗れなかった一般庶民には全時代を通して全く馴染みがなく、明治政府が当初一旦は夫婦別姓を導入した(確か法律は成立していたと記憶しています)のですが、実施にあたり庶民から「家庭内別姓は嫌だ」、「おかしい、昔から家族は夫婦もその子供も同じ苗字や屋号で呼んでいたし、呼ぶべきだ」、「〇〇の妻と呼ばれている(または)名乗っている」等々*1庶民感覚や馴染みのなさから猛反発を受け明治31年に夫婦同姓になったという経緯があります。


参考:夫婦別姓の法制化(明治9年太政官指令/出生家名)20余年経過し夫婦同姓法制化(明治31年民法(旧法)成立)
▼我が国における氏の制度の変遷(法務省

法務省:我が国における氏の制度の変遷


③補足ですが日本史における夫婦別姓家系図をみると「女 〇〇氏」という表現がなされているのを発見する事で気付くことも多いと思います。しかし、家系図をそのように記録する大名家や公家でさえ、妻妾が複数いる場合は、位階や土地の名、住居の場所名等を付けて呼ぶことが多く、父の氏を普段の呼び名にするケースは稀であったと思われます。


一旦は法制化された夫婦別姓が夫婦同姓に改められて法制化されたのは、日本史を通して家庭内で妻だけを他の家族と異なる呼び方にすることが、社会の全ての(貴族から庶民までの)階層において馴染みがなかったことが1番大きいでしょう。


まぁ、謀反人の娘などは時の権力者に遠慮して氏を伏せられたりするのですが、それは例外と言ってよいでしょう(細川ガラシャ等)


結論:明治期にいったん夫婦別姓が法制化されたのにうまくいかず、夫婦同姓になってしまったのは、庶民からの反発が強かったから。今更別姓にするのは滑稽です。


家庭内で夫婦の片方だけ他の家族と区別してその父方の氏で呼ばなければならないケースは歴史上も稀であったし、将来もまれであり続けるだろう。家庭の外での社会経済活動に法的保護を与えるのであれば旧姓使用拡大が筋。でなければ、家庭内分断を招きかねないと思う。


これは妄想ですが:位階(北政所大弐三位藤原賢子や准后平盛子朝臣等)のように、家庭内で藤原賢子取締役やら平盛子部長、北条政子課長と役職付きで呼ぶ時代すら招きかねない。

 

なお、中国や朝鮮半島における「家(家族)」とは「父系家族(妻のみ余所者)」という男系血族(同居共財)集団を長年意味しており、日本の「家」のように夫婦を中心とした家族単位で家業や家名の維持を重視する機能を持つものではない。
(参照:Wikipedia「家名」)

 

 

静御前

 

*1:庶民の感覚からすれば「八百屋の娘が大店の呉服屋の若旦那に嫁いだら呉服屋の御新造様とか御内儀と呼ぶべきで、八百屋の奧様等とは呼ばない」「料理屋の女将に入り婿した小作人の息子は料理屋の旦那と呼ばれるべきであって、小作人の婿殿では失礼である」という理屈

関東大震災時の報道に関する後藤新平の対応について Copilot に聞いてみた

《質問》
「内務大臣の後藤新平が、朝鮮人の悪行に激昂した東京の民衆が自警団を組織して東京防衛と朝鮮人制裁の動きが高まったのを沈静化するために、各新聞社に対して、朝鮮人の悪行報道はデマであったことにしてくれと頼み込んだ」は事実でしょうか。

 

《Copilot 回答》
関東大震災時の朝鮮人に関する報道については、歴史的にさまざまな議論がなされています。後藤新平が新聞社に対して「朝鮮人の悪行報道はデマであったことにしてくれ」と依頼したという具体的な証拠は見つかっていませんが、震災後の混乱の中で朝鮮人に関する流言が広まり、それを抑えるために政府が介入したことは記録されています 1⃣ 2⃣。

当時の警視庁が発行した『大正大震火災誌』では、朝鮮人による暴動や略奪、毒の散布などの噂は誤りだったと確認されており、司法省の調査でも組織的な犯罪の事実は認められていません2⃣。また、後藤新平が「朝鮮人襲来報道」を抑えた理由についても議論があり、震災後の混乱を鎮めるための措置だった可能性が指摘されています 1⃣。

この件については、さまざまな視点からの研究があるため、複数の資料を比較しながら検証することが重要です。歴史的な出来事の解釈には慎重な姿勢が求められます 1⃣。

 

 1⃣『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』 86年前、何があったのか?: J-CAST トレンド【全文表示】

 

2⃣関東大震災、朝鮮人が毒を入れようとしたのはデマではなく事実?【ファクトチェック】

 

《質問》

後藤新平が「朝鮮人襲来報道」を抑えた理由についても議論があり、震災後の混乱を鎮めるための措置だった可能性が指摘されています。と回答していただきましたが、「後藤新平が『朝鮮人襲来報道』を抑えた」は事実なのですね。

 

《Copilot 回答》

関東大震災時の報道に関する後藤新平の対応については、歴史的な議論が続いています。いくつかの資料では、後藤新平が震災後の混乱を抑えるために「朝鮮人襲来報道」を制限したとされています1⃣2⃣3⃣。これは、流言飛語による暴動や混乱を防ぐための措置だった可能性が指摘されています。

ただし、当時の状況は非常に複雑であり、後藤新平の意図や具体的な行動については、研究者の間でも見解が分かれています。複数の資料を比較しながら検証することが重要です。歴史的な出来事の解釈には慎重な姿勢が求められます。

 

 1⃣『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』 86年前、何があったのか?: J-CAST トレンド【全文表示】

 

2⃣関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった! – 書籍 | WAC ワック

 

3⃣関東大震災の朝鮮人虐殺について2<捏造でも叫べば真実?!本当の真実を知る必要がある! | ナツミカンのブログ

 

 

工藤美代子著『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』 産経新聞出版

 

悪しき友には親しみやすし 明治21(1888)年の尋常小学校の修身(道徳)教本から

【悪しき友には親しみやすし】
明治21(1888)年の尋常小学校の修身(道徳)教本から

尋常小学修身口授教案. 巻4 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション

国立国会図書館デジタルアーカイブ

 

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尋常小学修身口授教案

 

第88章
題目 悪しき友には親しみやすし
例話 鶏と狐の話
目的 悪しき友は、人をだしにつかひ、己の徳をしやうと、思ふものなれば、成るべく

   其人の気に入るやうに、軽薄をいひ、其心を悦ばせるものなれば、油断するなと

   諭す

 

或時、鶏が餌を拾ひ拾ひ園をあるいていましたが、狐などの用心をして、油断せずに居ましたが、果たして狐は之を見つけたが、鶏の用心深いのを見て、まづ計を考ひ「アア、鶏さん、よい所でお目に掛った、お前さんのお父さんとは、ご懇意をいたしました、どうぞお前さんとも、お心やすく願ひたい」ともうしますから、鶏は誠かと思ひ、考ひて居ると、又狐が「お父さんのお声は、大そうよかったお前さんも、お声が良かろう、と思ひますから一ッとお聞かせ下され」といふと、鶏は声の自慢でありましたから、急に乗り気になり、用心を忘れて目をふさぎ首をのばす處を、狐は急に馳せて引くわへて逃げました、と申します、

 

(問詞)
    (1)鶏は何をして居ましたか、
    (2)狐は鶏を見て何と思ひましたか、
    (3)狐は鶏に何をいひましたか、
    (4)鶏はどうしました、なぜ用心を忘れましたか、
    (5)狐はなぜ鶏にお世辞をいひましたか、

 

《本文現代語訳》

或時に、鶏が餌を拾いながら外の畑を歩いていました。狐などの用心をして、油断せずにいたのですが、思った通り狐に見つかってしまいました。狐は鶏が用心深いのを見て、何はともあれ一計を案じて「アア、鶏さん、よい所でお目に掛った、お前さんのお父さんとは、親しくお付き合いをいたしました、どうぞお前さんとも、お心やすく願ひたい」ともうしますから、鶏は本当かと半信半疑で、考えていると、又狐が「お父さんのお声は、大そうよかったお前さんも、お声が良かろう、と思います。ですからちょっとお聞かせ下さい」と言うと、鶏は声は自慢にしていましたから、急に乗り気になり、用心を忘れて目を閉じて首を伸ばした(声を出そうとした)。その瞬間に、狐は素早く駆け寄って(鶏の首を)引き咥えて逃げていきました、ということです。

善き友は面白からず 明治21(1888)年の尋常小学校の修身(道徳)教本から

【善き友は面白からず】
明治21(1888)年の尋常小学校の修身(道徳)教本から

尋常小学修身口授教案. 巻4 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション

国立国会図書館デジタルアーカイブ

 

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尋常小学修身口授教案

 

第87章
題目 善き友は面白からず
例話 戴良と黄憲の話
目的 善き友は、己より知恵もあり、行も正しく、窮屈なる故交わりても面白からぬも   

   のなり、されども、その窮屈なる所は、我が益を得る所なれば、必ず親しむやう 

   にすべし、と諭す、

 

支那に戴良と言う人がありまして、利口な人でしたが、高慢の強い性格でありました、同様に黄憲と言う賢者がありまして、良と友達でした、憲は牛医の子で、貧乏しておりますれども、頗る才徳ありまして、良の如き高慢者も、この人の前では、行儀を慎み、窮屈な思いをしますから、家に帰っても、ぼんやりして見えます、すると其母が「おまえまた牛医の子に逢って来たな」と云われます、良は「憲の前へ行かない内は、いつも、ナーニ叶わないことがあるものか、と思いますけれども、其人の前にゆくと、ズッと気後れがいたします」といわれたと申します、だから皆さん利口な人の前といふものは、いやなものであります、然しなれど薬ですから、そんな人に親しむようになさい、

 

(問詞)
    (1)戴良はどんな人でしたか、
    (2)黄憲はどんな人でしたか、
    (3)良が憲に逢ふとどうでありましたか、
    (4)良の母は何といひましたか、
    (5)良は何といひましたか、
    (6)善友はどんなものですか、

https://dl.ndl.go.jp/pid/811271/1/25

 

 

《現代口語簡約》

支那に戴良と言う人がいました。利口な人でしたが、自分は誰よりも優れていると他の人を見下すような性格でした。同じ時代同じ支那に黄憲と言う賢者がいました。この人は良と友達でした。憲は牛医の子で、貧乏はしていましたけれども、非常に才能と知恵があり立派な行いをする人でした。良のような高慢な者も、この人の前では、行儀よく立派に振舞おうとして、緊張して窮屈な思いをするものですから、家に帰っても、疲れ果ててぼんやりしてるように見えます。ですから戴良の母が「おまえまた牛医の子に逢って来たな」と分かってしまいます。良は「憲の前へ行かない内は、いつも、ナーニ叶わないことがあるものか、と思うのですが、いざ黄憲の前にゆくと、ズッと気後れがいたします」と白状したといいます。だから、皆さんも利口な人と交流を持つということは、気後れしてしまうものですが、自分のためになることですので、そんな人に親しむようにしましょう。

 

 

《参考》

十八史略 東漢 孝安皇帝 黄憲

黄憲は千頃の陂*1の若し

 

汝南(じょなん)の太守王龔(おうきょう)、才を好み士を愛す。
袁閬(えんろう)を以て功曹(こうそう)と為し、黄憲(こうけん)、陳蕃(ちんぱん)等を引き進む。
憲が父、牛醫(ぎゅうい)を為す。
憲、年十四たり、頴川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、逆旅(げきりょ)に遇ひ、竦然(しょうぜん)として之を異として曰く、
「子は吾の師表なり」と。
袁閬(えんろう)に見まみへて曰く、
「子が国に顔子有り」と。
閬曰く、
「吾が叔度(しゅくど)を見たるか」と。
戴良(たいりょう)、才高し。
憲に見まみへて帰る毎に、惘然(ぼうぜん)として自失せるが若(ごと)し。
其の母曰く、
「汝じ復た牛醫の兒より来るか」と。
陳蕃等、相(あひ)謂ひて曰く、
「時月(じげつ)の間、黄生(こうせい)を見ざれば、鄙吝(ひりん)の萌(きざし)、復た心に存す」と。

 

現代語訳

汝南太守の王龔は才能ある人士を愛し、袁閬を功曹と為し、黄憲、陳蕃らを推挙した。
黄憲の父は牛医であった。
黄憲が十四才のとき、頴川の荀淑と宿場で出会った。
荀淑は一目みた途端に黄憲の類まれな人柄に感じ入って云った。
「あなたは私の理想とする人です」と。
そして袁閬に謁見して云った。
「この国には顔子が居ますよ」と。
袁閬は云った。
「さては、あなたは黄憲に出会ったのですね」と。

戴良は才能溢れる人物だったが、
黄憲と会って戻ってくるたびごとに、茫然自失とする有様であった。
その様子に戴良の母は云った。
「お前はまたあの牛医の児に会ってきたのでしょう」と。

また、陳蕃等も互いに語りあって云い合うのであった。
「しばらく黄憲に会わないでいると、鄙吝の(卑しくけち臭い)心が生じてくる気がするのです」と。

 

*1:千頃(せんけい)の陂(は):とてつもなく大きな湖のこと。
「頃」は面積の単位で百畝を一頃とし、千頃で田畑のとても広い様を示す。
また、「陂」はつつみ、ため池のこと。

大戦中の義勇軍「フライングタイガーズ」は正規の米国空軍部隊だった Creation of the Flying Tigers “has the approval of the president and the War Department,”

真珠湾攻撃の半年前に米国は日本軍と戦っていた。

布告無き攻撃と言われた真珠湾攻撃に先立つ5月3日に結成された”義勇軍”部隊は6か月で日本軍機296機を撃墜した。

平成3(1991)年7月8日 読売新聞 フライングタイガーは米国空軍の正規部隊

www.latimes.com

 

COLUMN ONE : One Last Combat Victory : The Flying Tigers tore up the Japanese in World War II. Now, they have won a U.S. admission that they were on ‘active duty,’ and memos disclose the operation’s covert nature.

 

By RALPH VARTABEDIAN
July 6, 1991 12 AM PT

 

TIMES STAFF WRITER
They sailed across the Pacific on Dutch freighters, representing themselves as farmers, missionaries and mechanics. But this group of recently discharged military pilots had a special mission in 1941: to go to China and fight the Japanese.

After landing in Rangoon, they set up an ostensibly volunteer aviation force in China. Shortly after the attack on Pearl Harbor, the fighting began. Ultimately, the 100 pilots amassed perhaps the greatest record in the history of air combat.

Historians have long asserted that this group, the famous Flying Tigers, was a covert operation, orchestrated by wheeler-dealers in the White House of Franklin D. Roosevelt and supported by the War Department.

 


But the Pentagon has denied that the Flying Tigers force was anything but voluntary, its members ineligible for veteran status or benefits.

Now, five decades later, the Pentagon is making amends--and thus tacitly admitting what really happened.

A special service review board has determined that the pilots and 200 or so crewmen of the Flying Tigers--formally known as the American Volunteers Group--served “active duty” during their battles in 1941. An announcement of the Defense Department finding, which was signed without ceremony on May 3, is scheduled to be made today.

 

Few people have had adventures as compelling as those of the Flying Tigers. Some were housed in royal splendor by the colonial British, a double Scotch awaiting their evening arrival from the airfield. Others slept in leech-infested rice paddies. There was romance. And there was plenty of booze, with some drinking until dawn in Rangoon nightclubs.

They served under Chinese leader Generalissimo Chiang Kai-shek, the ardent anti-communist, and their aircraft bore the insignia of the Chinese army--circumstances that ordinarily would make them servants of a foreign power.

But nothing was ordinary about the operation.

 

Secret documents obtained by Robert Schriebman, the group’s attorney in Torrance, leave little doubt about the origin of the unusual war effort. Creation of the Flying Tigers “has the approval of the president and the War Department,” according to an August, 1941, memo for the chief of the Army Air Corps, Gen. Henry (Hap) Arnold.

 

The official U.S. involvement in the operation was clandestine at least in part because it violated the U.S. Neutrality Act, which forbade taking sides between “belligerent” nations such as China and Japan. No doubt there was concern that a U.S. military operation in China would be a provocation to the Japanese.

“To avoid a breach of international law, the entire project was organized as a commercial venture,” according to a heretofore secret report prepared by an Army intelligence officer in 1942 and recently obtained by Schriebman.

The covert U.S. effort in China “makes the the Iran-Contra affair look like a small-scale operation,” Schriebman said.

It remains unclear why secrets about the Flying Tigers were protected for so long. But historians say that much about World War II is still murky. British authorities, for example, are suppressing release of U.S. documents that shed light on espionage activities.

“Even with the passage of all this time, there are still matters in the history of World War II that are regarded as sensitive,” said Richard Hallion, a prominent aerospace historian.

 

Destroyed 296 Planes

Unlike many special military operations that have proved ill-conceived, the Flying Tigers executed their bizarre plan with stunning results.

Over a six-month period, the aviators destroyed 296 Japanese fighters and bombers, while losing just four of their own pilots to enemy gunfire. During their brief operation, which ended July 4, 1942, the operation slowed Japan’s advance on China and bought critical time for the United States.

“We have a record that is second to none,” said David Lee (Tex) Hill, one of 26 surviving Flying Tiger pilots, who shot down 12 Japanese planes and shared credit for a 13th. “Nobody will ever match that again: 296 to 4.”

At that moment in history, the victory was the lone American success in the war against Japan. After Pearl Harbor, the Japanese quickly captured Hong Kong, Manila, Bangkok, Singapore and eventually Rangoon.

It looked like nothing could stop the Japanese, least of all a group of ragtag volunteers from America, equipped with dated Curtiss-Wright P-40 aircraft. The fighters, powered by noisy 12-cylinder engines, could not turn or maneuver as well as their lighter Japanese adversaries, the infamous Mitsubishi Zero and the closely related Nakajima Oscar.

But the American aircraft were no clunkers. They sported twin .50-caliber nose guns and four .30-caliber wing guns, providing superior fire power. They could also take abuse--a cylinder head could punch a hole in a wing without catastrophic effect. And they had one tactic that proved to be the doom of the Japanese: by diving, they could pull away from their adversaries and maneuver into a position of advantage.

‘Hard-Bitten’ Leader

It was a simple concept originated by Claire Lee Chennault, the tough commander of the Flying Tigers, who came from Waterproof, La.

“He was a hard-bitten character who knew what he was there for and how to beat the Japanese,” recalled Charles Older, who served under Chennault throughout the war. “I can’t recall anybody who I would rather have had as our group leader than Chennault.”

After falling out of favor in the War Department because of his outspoken views in the late 1930s, Chennault resigned his commission and became an adviser to Chiang Kai-shek. Chennault later was recommissioned and rose to lieutenant general before his retirement.

To this day, the Republic of China continues to honor Chennault, having erected a statue of him in downtown Taipei, the only monument to a foreigner in Taiwan. Each year, the Taiwanese mission in Washington, D.C., holds a reception to honor surviving members of the group.

“They are longtime friends to my country,” said Albert Lin, spokesman for the mission.

The operation was financed by the Chinese government, but with a $100-million loan from the U.S. government arranged by Secretary of the Treasury Henry Morgenthau. The whole adventure was orchestrated by White House power broker Lauchlin Currie, an economic adviser to Roosevelt, according to David Ford, who has been researching the Flying Tigers for the past five years and will publish a book later this year.

Like other covert operations, the Flying Tigers group was organized through a front corporation, the Central Aircraft Manufacturing Co., according to the 1942 secret Army report. Phony travel documents were issued, which allowed the pilots and ground crew to pass themselves off as civilians.

To recruit the Flying Tigers, Chennault’s agents visited military bases around the United States, sometimes plying pilots with offers of exotic adventure while serving up a round or two of cocktails. If that wasn’t incentive enough, pilots were offered $600 per month and a bonus of $500 for every Japanese aircraft they could shoot down--big pay at a time when junior pilots were making just $125 per month.

Although the pilots and ground crews did not know much about what they were getting into, they jumped at the chance.

“I had read everything that (British author Rudyard) Kipling wrote twice over and that part of the world fascinated me,” recalled Edward Rector, one of the volunteers. “I was one of those naive people who thought we would never go to war.”

The recruits were given instructions to rendezvous in July, 1941, at the Belmont Hotel in San Francisco, where they boarded a passenger freighter operated by the Java Pacific Lines. After three weeks, they landed in Burma and traveled to a base 170 miles north of Rangoon.

By early December, the Flying Tigers were still in training, under close scrutiny by Japanese spies. But the attack on Pearl Harbor pushed them into early service. Within days they were battling Japanese fighters and bombers attacking positions in China and Rangoon.

Vivid Memories

The pilots can recall in vivid detail every enemy aircraft they shot down.

“I bore in on the sucker and opened up about 200 yards behind his tail,” recalled R. T. Smith, a Van Nuys resident, of one of his nine kills. “Before I knew it, I was on top of him and a piece of his cylinder head went right through my wing. It tossed me up like a leaf, but I was so jubilant after seeing that bastard blow up that I didn’t even notice.” Like Smith, some Flying Tigers still harbor deep animosities toward the Japanese. “I never did like them and still don’t.”

Shortly after Pearl Harbor, a Flying Tiger squadron was deployed to defend Rangoon from Japanese attacks. While there, some pilots were put up in the posh compound of British colonialists who had been evacuated from the country shortly after hostilities began.

“I was staying at the home of a Scotsman, Bill Tweedy, and when he was evacuated he left all his clothes. I had quite a wardrobe for a while,” said John Rossi. “We sort of took over the servants and just lived there until we left.

“Tweedy said that when we were ready to leave we should shoot his dog and burn the house, because he didn’t want them to fall into Japanese hands. Well, we couldn’t shoot that dog and we didn’t burn down the house either,” Rossi said.

Parties Until Dawn

Although Rangoon was primitive in those days, it offered a few good nightclubs, such as the Silver Grill. “Quite often, we would party all night until the lorry would come at dawn to take us back to our planes,” recalled Rector.

It was in those days that Rector, a bachelor, met an 18-year-old student at a local convent school. She became a life-long friend and his companion at many of the Flying Tigers reunions that have been held over the years.

“There is a gathering together, because we know that we don’t have too much time left together in this vale of tears,” Rector said.

After World War II, 10 of the Flying Tigers formed the Flying Tigers Line, the cargo carrier based in Los Angeles that was later acquired by Federal Express. Some became weapons salesmen for major U.S. contractors. One became a radio show writer. Older eventually became a Superior Court judge in Los Angeles and presided over the trial of mass murderer Charles Manson.

The Flying Tigers are old men now, but their experiences during the six months in China have become a focus in their lives.

Smith has decorated his living room with giant photos of World War II air battles. In 1962, the group went to Taiwan to be honored by Chiang Kai-shek before his death. During the Gulf War, the Flying Tigers raised several thousand dollars to help dependents of the Air Force’s 23rd Wing, which traces its lineage to the Flying Tigers.

The recognition as veterans is important to a number of the Flying Tigers, especially because it was denied them after the war.

In 1945, the Flying Tigers petitioned the government for veteran status, but were turned down, the result of petty jealousy toward Chennault among senior Pentagon officials, according to their attorney, Schriebman.

“Chennault put a fighting organization together that they couldn’t duplicate with all their pomp and resources,” Schriebman said.

Rossi, a Fallbrook resident who heads the Flying Tigers organization, decided to try again last year. Schriebman, an aviation buff, petitioned the Defense Department.

In his recommendation that the Flying Tigers be granted status as veterans, Air Force Brig. Gen. Ellwood P. Hinman III said that a military review board “determined that U.S. Armed Forces exerted control as if the group’s members were military personnel from the outset of the United States entry into World War II, although this control was transitioning from covert to overt until April 1942.”

Veteran status may help some of the Flying Tigers financially, though many of them qualify as veterans owing to later military service. But their primary motivation in seeking the Pentagon approval was a desire to be recognized as American servicemen and not soldiers of fortune.

“Some of our guys paid a hell of a price over there,” said Tex Hill. “And they got no veterans benefits of any kind. That’s a big deal.”

The recognition was scheduled to be formally disclosed to the members this weekend at their 50th anniversary reunion in San Diego.

“All they want is a flag on their headstone,” Schriebman said. “They want to be recognized as American fighting men and not a bunch of mercenaries who went to China for glory and money.”

 

 

 

 

Korea and Her Neighbors:Isabella Bird Bishop

Korea and Her Neighbors:Isabella Bird Bishop

 

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右頁から 閔妃と日本のかかわりが書いてある。
両班の腐敗(腐敗した行政官)はこの国を知るものすべての常識だったようだ。
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1895 年 1 月、ソウルは奇妙な状況にあった。「旧秩序」は変化しつつあったが、新秩序はそれに取って代わっていなかった。陸海で勝利した日本軍は、戦争前に中国に協力を求めた改革を強制できる立場にあった。1894 年 7 月に日本軍がソウルの宮殿を占領して以来、国王は「給料をもらっている自動人形」に過ぎなくなり、かつて権力を握っていた閔氏一族は職を追われた。日本軍は、すべての部門の監督責任を引き受け、腐敗した行政官に誠実さを強制する用意があった。1894 年 9 月 17 日の平壌での中国軍に対する勝利は、日本軍が目的を遂行する自由を与えた。新日本を創設した政治家の中でも最も優れた人物の 1 人であるイノウエ伯爵は、1894 年 10 月 20 日に「駐在官」として到着し、国王の名において事実上政府を運営した。すべての部門に日本人の管制官がおり、軍隊は日本人の教官によって訓練され、警察部隊が組織され、体に合わない日本の軍服を着せられ、改革計画を起草し、朝鮮議会の核を形成するために朝鮮人評議会が任命され、日本人顧問のイノウエ伯爵は国王に常時面会する権利を持ち、通訳と速記者とともに内閣の会議に出席した。毎日、新しい任命、規則、廃止、改革に日本人の優位性が明らかであった。日本人は、彼らの目的は朝鮮の行政を改革することだと主張した。

 

 

Korea and Her Neighbors:Isabella Bird Bishop

 

賢明な保守を任じる人なら何の話か分かる【内ゲバとは何か】

内ゲバとは何か】


ここ日本国では、国会で多数を占める意見だけが政策として実現される。だから自分の理想社会を実現したければ、主権者たちの同意を多く得ることが必要だ。自分の主張が真実だろうと、絶対正義だろうと無関係だ。つまり、政策実現は説得と妥協によってのみ獲得可能になる。日本は国会を最高機関とする民主主義国なのだから。


だから、民主国日本で政治家であろうとするなら、敵を打倒し滅亡させることによってではなく、ひとりでも味方を増やすことが最重要だ。

 

敵を罵倒して味方が増えるなら良し、敵を味方と錯覚させられるならそれも良い。敵を減らし、味方を増やす良策だからだ。

 

しかし、敵を議論から退場させられず、敵の味方(敵)を増やすのでは政治家失格。敵に乗じられる拙策は、その政治家の無能を証明する


正義や理想、真実の追及者を演じる思想家であればそれでも良い。また主権者としての傍観が許される立場なら良いだろう。だが、日本の政治家として理想実現を目指すなら害悪だ。

最末端の主権者たちが呆れるような汚い戦いは何であれ政治家の仕事ではない。


反間の計を例として出すまでもない。近親憎悪ほど敵に利用し易いものはないのだから。賢明な保守を任じる人なら何の話か分かるだろう。


極左内ゲバは真似るべきではなく、教訓とすべきものだ。

ドイツは第二次世界大戦の講和をどこの国ともしていない 戦後80年「見逃しがちな事実」

石破首相の「戦後80周年メッセージ」と言うことで思い出した
「見逃しがちな事実」
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【ドイツは第二次世界大戦の講和をどこの国ともしていない】


ドイツがパリ講和会議で講和したのはイタリアと連合国の間だけ。
ドイツは戦後、どこの国とも第二次世界大戦の講和を行なっていない。


ユダヤ人の虐殺は戦争犯罪のカテゴリーではない。600万人とも言われる犠牲者のうち150万人がドイツ国民。自国の国民を虐殺する戦争犯罪はこの世にはない。戦後、ナチスドイツが裁かれたのは組織的、計画的、大量虐殺という犯罪について。そのため、この犯罪をナチ犯罪と呼ぶ。


このナチ犯罪はあまりにも犠牲者が多すぎて、実際の被害者の詳細(どこでどういう風に殺された、拉致された等)が不明なことも多い。そのため、ドイツはこの問題に対しては謝罪しか方法がない。ナチスの不法という戦争犯罪の枠を超えたものとしての扱いが国際社会においても問題になったということ。

 

第二次世界大戦後の1949年、ドイツには二つの分断国家、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ドイツ民主共和国東ドイツ)が成立し、正当な継承国が決定されない状況下のため戦争中のいわゆる戦争犯罪に対する賠償問題の解決は統一後まで一時棚上げされることになった。その後そのままということ。

 

また、1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツの戦争状態は正式に終了した。この条約には賠償について言及された点は存在していないが、締結に際して連邦政府は「賠償問題は時代遅れになった」とはっきり説明し*1、もはや賠償問題は提起されないという立場をとっている*2

統一後のドイツは、「ドイツの戦後問題」が最終的に解決され、「賠償問題はその根拠を失った」として、法的な立場からの賠償を認めていない。

 

連邦補償法などのドイツ連邦共和国が行った各種補償措置の名目は「ナチス不正」に対する補償であって「人道に対する罪」や「戦争責任」に基づくものではなかった。とWikipediaでも書いてある通り。


日本は戦後、サンフランシスコ講和条約で連合国との講和を行い、日華平和条約中華民国との講和も行った。また、中国とも日中平和条約で講和をしています。現在、日本が連合国で講和に至っていないのはロシアだけ(これが戦後の総決算として日露平和条約を締結したいとする理由)。


また、戦後にできたアジア諸国とは別途、平和条約を結んで来た。大韓民国のと間の条約が日韓基本条約なのは日本と大韓民国間での戦争の事実がないから。 


戦争犯罪に対する責任をごまかしているのはドイツ。近年、ポーランドギリシャなどから戦後賠償を求められたこともある。それは戦争犯罪も存在するからだが、ドイツ政府は全ての責任をナチスに転嫁している。

 

 

*1:山手治之「ドイツ占領軍の違法行為に対するギリシャ国民の損害賠償請求訴訟(2) : 個人の戦争賠償請求権,主権免除,ユス・コーゲンス」『京都学園法学』第52巻、京都学園大学、2006b、293-353頁、NAID 110006560921

*2:外務省外交史料館編纂室「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程 ―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」『外交史料館報』第30巻、外務省外交史料館、2017年、93-116頁。

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