【現在のガザを語るための簡略な歴史】
1947年国際連合の総会で、パレスチナを分割しアラブ人とユダヤ人の国をそれぞれ作り、エルサレムはそれとは別の国際都市にするという決議案を可決した(1947年パレスチナ分割決議)。
ユダヤ人団体の指導者たちはこの国連総会決議を受け入れたが、アラブ側は拒否。この決議は実施されず。
イギリスは1948年にパレスチナから撤退した。ユダヤ人指導者たちはただちに、イスラエル建国を宣言。
イスラエルが建国を宣言した翌日、アラブ連盟に加盟するシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの5カ国がイスラエルを一斉攻撃。
何十万人ものパレスチナ人が、自宅を追われるか逃げるかした。パレスチナの人たちはこれを「アル・ナクバ(大災厄)」と呼ぶ。
翌年に停戦が実現するまでの間に、イスラエルは領土のほとんどを支配するようになっていた。
ヨルダンは「ヨルダン川西岸」と呼ばれるようになった地域を支配し、ガザ地区はエジプトが支配した(1948年から1949年までの第1次中東戦争の後、ガザ地区は19年間、エジプトに占領された。)。
エルサレムは、イスラエル軍が西側を、ヨルダン軍が東側を支配した。
1967年の第3次中東戦争を経て、イスラエルは東エルサレムとヨルダン川西岸、シリアのゴラン高原の大半とガザ地区、そしてエジプトのシナイ半島を占領した。
シナイ半島については、1973年10月の第4次中東戦争の後、1978年のキャンプ・デイヴィッド合意でイスラエルが返還に合意。翌年のエジプトとイスラエルの平和条約調印を経て、1982年4月までにエジプトに返還された。
パレスチナ難民とその子孫のほとんどは現在、ガザ地区とヨルダン川西岸地区、並びに近隣のヨルダン、シリア、レバノンに住む。
1967年の第3次中東戦争を経てイスラエルはガザを2005年まで占領し、その間、ガザにイスラエル人の入植地を作り続けた(イスラエルは2005年にガザから軍と入植者を撤退。)。
1993年オスロ和平交渉ー1993年にビル・クリントン米大統領が見守る中、ホワイトハウスの庭で調印式が行われた。パレスチナ解放機構(PLO)はイスラエル国家を認め、イスラエルは長年敵対してきたPLOを、パレスチナ人の唯一の代表と認めた。このオスロ合意をもとにできたのが、パレスチナ自治政府。
当時イスラエルの野党党首だったベンヤミン・ネタニヤフ氏は、オスロ合意がイスラエルの存続を危うくするものだと非難した。イスラエルは、占領を続けるパレスチナ自治区で入植活動を加速させた。
このころになって登場したパレスチナ武装勢力ハマスは、戦闘員をイスラエルに送り込んでは自爆させ、大勢を殺し、新しい合意成立の可能性を踏みつぶした。
1995年11月4日には、オスロ合意の当事者だったイツハク・ラビン首相が同じイスラエルの過激主義者に暗殺される。
イスラエルが2005年にガザから軍と入植者を撤退させると、ハマスは2006年1月、パレスチナ立法評議会の選挙で過半数の議席を獲得し勝利。ヨルダン川西岸を基盤とする穏健派ファタハを率いるマフムード・アッバス自治政府議長を追い出す。
現在のガザ地区はイスラム武装組織ハマスが実効支配している。ハマスは、イスラエルの破滅をその目標として掲げ、イギリスをはじめ多くの主要国からテロ組織として指定されている。
対するイスラエルは上空と境界線、ならびに海岸線を支配下に置いており、国連はガザはイスラエルの占領下にあると位置付けている。
ー以上はBBCニュース等を参考にしたー
ガザ地区完全封鎖と空爆の継続は、ガザに住む全パレスチナ人に対する報復に等しい。しかしその原因はハマスの無差別大量テロ攻撃であり、正しく報復の対象となるべきテロ組織ハマスが全パレスチナ人を肉の盾とすべく故意に行った行為なのだ。
全ての責任はハマスにある。