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1473 尖閣航路 / 足利幕府の命による島津家の琉球貿易統制権の確立

南北朝から室町幕府の時代には、日本国内で対立する勢力が大陸貿易を巡る主導権争いをしていて、琉球王国もその争いの渦中に巻き込まれ、室町幕府の権力争いの途中で島津家の下に従属せざるを得なくなった。

 

 

嘉吉の附庸

嘉吉元(1441)年三月 島津忠国は五将を送り日向国福島永徳寺において大覚寺門跡義昭を誅殺、首を塩漬けにし京へ送る。足利義教は大いに喜び、追討の五将に刀、感状を賞賜。忠国には直筆の感状と国安の太刀、浅黄糸の腹巻、青毛の馬に琉球国を下賜した。
ー伊地知季安「南聘紀考」 及び 山本正誼「島津国史」によるー

 

ただし感状には琉球国下賜の記述はない

しかし、南北朝時代の終わりごろから、さらに応永年間(1394年から1427年までの期間)を通して、島津は朱印船(勘合貿易)に深く関与しているという実績を見なくてはいけない。このブログでは簡単に朱印船航路を琉球を用いて島津家がどのような統制をしていたかを綴ってみたい。

このブログ内容は、分かったことを随時追記してゆくつもりだ。

 

嘉吉の附庸】以前の主な出来事。

14世紀の九州

文中元年/応安5年(1372年)今川貞世(いまがわ さだよ)こと今川了俊室町幕府任命の九州探題として、南朝懐良親王菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、大宰府を奪回。以後、北朝方の拠点とする。

天授3年/永和3年(1377年)今川了俊率いる北朝方、南朝菊池武朝阿蘇惟武肥前蜷打の戦いで大勝。

 

北朝:康暦元年、南朝:天授五年(1379) 島津氏久日本国王良懐(懐良親王の使者として表文、、刀甲、硫黄等を奉ず(『明太祖実録』洪武十二年)。

 

 

元中9年/明徳3年(1392年)今川了俊南北朝合一を機に菊池武朝と和睦し九州を平定。

大内氏応永の乱

百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖とすると称する大内氏は周防の土着武士であり、鎌倉幕府御家人に連なっていた。南北朝では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。その後豊前も領地に加えられる。

大内義弘の代には、和泉・紀伊を領有し、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護となっていた。また、義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されるなど朝鮮との強いつながりを持ち、地理的利点からも朝鮮貿易を営み巨万の富を蓄えていたと言われている。

周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は、当然のことながら将軍専制権力の確立を目指す足利義満の警戒を受けることとなる。

応永5年(1398年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言。

義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘は上洛せず。

追い込まれた義弘鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介。

応永6年(1399年)10月13日、大内義弘挙兵。応永の乱 同年鎮圧され義弘敗死。

義弘の死後、領国の大半は義満に取り上げられ、周防・長門2ヶ国の守護職義弘の弟である大内弘茂に安堵され、大内家の勢力は一時的に衰退した。しかし、乱の際に領国の留守をしていた義弘のもう1人の弟・大内盛見がこの決定に反抗、再び家督を巡って抗争が起こり、弘茂盛見に殺され、幕府の命令を受けた周辺の国人衆も盛見の前に降伏したため、幕府は盛見家督を追認。

 

応永十三年(1405)   島津家、琉球を通じ朝鮮との交易を開始。

大内家の勢力が弱まった時に島津家が琉球を通じ朝鮮と交易を開始したとと読み取れる。琉球と大内家は朝鮮市場を巡るライバルだったのだろう。

 

北朝:康暦元年、南朝:天授五年(1379) 島津氏久日本国王良懐(懐良親王の使者として表文、、刀甲、硫黄等を奉ず(『明太祖実録』洪武十二年)。

北朝方であった島津氏久南朝懐良親王の使いと言う名目で朝貢を試みたのは、明朝が既に懐良親王日本国王として承認してしまっていたからだ。

もちろん、南朝懐良親王の対明政策に対応するまでもなく、島津氏には南北朝の始まりの頃から北朝側に協力するために琉球を利用するという企図があったという仮説も想定できる。それについては、事例が見つかり次第、付け加えていきたい。

注目は硫黄だ。下の方に説明してある通り、琉球薩摩の硫黄島硫黄だと思われるからだ。

 

足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ足利義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。その経緯は次の通り。


応永八年(1401) 幕府船:明に国書を送る。正使祖阿(同朋衆)・博多商人の肥富(こいずみ)を派遣した。翌応永九年(1402)、明の永楽帝は大統暦を義満に与え、日本国王として遇す。国書は公家の東坊城秀長が作成。

 

応永十一年(1404) 足利義満勘合貿易開始。島津家は硫黄の調達を命じられる。北朝側に与していた島津氏が幕府の信用を得ていたことも確かであろう。他の九州の大名を差し置いて、それ以降の勘合貿易に深く関与するようになるのは当然だ。

 

薩摩の硫黄島平安時代には既に硫黄を産することで有名であり、安元三年(1177)6月京都、鹿ヶ谷の陰謀によって俊寛が流された喜界ケ島を『平家物語』はその巻第二で「住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、硫黄島ともいう」と述べている。

明朝側も対モンゴル防衛のために火器に使用する硫黄を必要としていた。

また、琉球馬として有名な宮古は、宮古島で13世紀以前から飼育されていた。また与那国馬琉球から明への輸出されたことで有名だ。

 

  

応永十三年(1405)   島津家、琉球を通じ朝鮮との交易を開始。

応永十七年(1410) 島津元久は、時の室町幕府将軍足利義持麝香虎の皮砂糖南蛮酒を献上した記録が残っている。これらは琉球との交易によるものだろう。この当時の朝鮮半島、チャイナ、日本との交易の中心点としての琉球が、 万国津梁の鐘(1458年に鋳造)に描かれている。

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。この二中間に在りて湧出するの蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす。(以下略)―万国津梁の鐘の銘文―

万国津梁の鐘はかって首里城正門に懸けられていたという。現在は、沖縄県立博物館・美術館にて保管されている。下の画像はWikipediaから。

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 【嘉吉の乱(6代将軍足利義教の暗殺未遂事件)別名:大覚寺義昭の乱

以下はWikipediaを参考にした。

 

永享9年(1437)7月11日未明、大覚寺義昭(だいかくじ・ぎしょう)は秘かに大覚寺を抜け出し逐電した。室町幕府将軍足利義教以下幕閣は、大覚寺南朝ゆかりの寺院であること、またこの頃鎌倉公方足利持氏が反幕府の動きを見せていたことから、義昭(ぎしょう)はそのどちらかと結託して出奔したと判断し、畿内各地で捜索を開始した。

 

翌月には義昭が吉野で還俗して挙兵したという情報が入り、翌永享10年(1438)3月には大和国に討伐軍が派遣されて、9月には吉野で反抗していた大覚寺の僧侶と山名氏旧臣が討たれた。これを「大覚寺義昭の乱」と呼ぶこともあるが、実際のところは一連の騒動の期間に義昭が吉野に滞在していた証拠も、挙兵の中に義昭当人がいたことも、それを確認できる文献は存在せず、風説が独り歩きしたことも考えられる。その後の義昭の行動にも、すくなくとも鎌倉公方との関係を示唆する史料は残されていない。

 

吉野で足利義教の命令を受けた幕府軍義昭を捜索していたが、永享10年(1438)3月に実は義昭は四国にいるという情報が幕府に伝えられ、やがて土佐国の国衆・佐川氏の保護下に置かれていたことが、管領細川持之発給の御内書などによる土佐・阿波の諸国衆に対する命令で明らかとなっている。

 

更に永享12年(1440年)頃には、義昭九州に移って還俗して尊有(たかもち)と名乗り、日向国の国衆野辺氏の保護下に置かれていることが明らかとなった。そこで義教は日向守護を兼ねる薩摩守護の島津忠国義昭討伐を命じた。しかし、島津家中では、義昭擁護論と討伐論に割れていたと推測され、万里小路時房の『建内記』には伝聞記事として、島津氏の庶流の人物より幕府に対して忠国義昭を匿っているとする密告があったと記述している。そこで義教忠国と面識のある赤松満政大内持世らを通じて説得に当たらせた。当初は義昭討伐を渋っていた忠国も度重なる義教からの命令と幕命違反に不満を抱く家中の意見双方の圧力に屈する形で、重臣の山田忠尚新納忠臣らに義昭討伐を命じた。島津忠国の心境は複雑であり、山田忠尚新納忠臣らにはやむなく討ち取って首を刎ねるとしても義昭の貴人としての名誉に配慮するように命じている。

嘉吉元(1441)年三月山田忠尚新納忠臣らは櫛間永徳寺にいた義昭を包囲。義昭は逃げられずと悟って自害した。

義教は薩摩から義昭の首が届くと大いに喜んだという(上記【嘉吉の附庸】参照)。

島津氏は、幕府に恩を売ることに成功する。

 

禁闕の変と長禄の変】

嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽が奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)12月に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた。

南朝系の血脈はここに断絶する

 

応仁の乱の勃発】

応仁元年(1467) ―  文明9年(1477)

室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。

 

 応仁の乱で瀬戸内海は西軍の大内政弘の勢力下になる(1467年以降)。戦後も細川と大内の対立により、細川家の用いる勘合貿易船が大内氏の支配する瀬戸内海から九州東部を通るルートが常時脅かされる状況となった。それで、島津氏は細川氏から遣明船の警護を任され、細川氏経由で琉球貿易に係わるようになり、琉球渡来朱印状発給と琉球交易船を独占することとなる。

 

 文明三年(1471) 島津立久幕府より「琉球渡海船に規定の印判なきものは薩摩で追い返し、その積荷の銭貨は没収して京都へ運上せよ」と命じられる。琉球貿易統制の独占を幕命として受ける 。この命令は、室町幕府は島津氏が琉球貿易や勘合貿易に影響力を発揮できる位置にあるだけではなく、琉球渡海船に警察権を行使できる実力と実績があると承知していた事を示すのだろう。


文明四年(1472) 立久琉球尚円琉球から本邦へ来朝するよう命じる。また、島津の発給した渡海朱印状を持たない船の琉球への入港を禁じる旨を命じた。

文明五年(1473) 尚円、これらを了承。琉球貿易統制権の確立 

 

 

 

 つまり、

内船の航路は堺、兵庫から瀬戸内海を通り、下関、博多を経由し東シナ海を直線的に横断して舟山群島ー寧波へ。

細川船の航路は瀬戸内海を避け、土佐の浦戸、下田、南九州の油津、坊津を経由して(琉球のどこか《口永良部・吐噶喇列島・沖縄本島?》から)舟山群島ー寧波へ。

というルートを用いることとなったのである。

なお、舟山群島の島々は倭寇の根城であったと考えられ、日本の諸勢力がその取締りで支配力を及ぼした地域と考えられる(第0列島線)。鄭和の日本派遣に関する史料が寧波の記載で終始していることは、日本の政権(南北朝の両方と足利幕府)の窓口や代理人がそこに存在していたことを示唆しているのだろう。琉球であっても可笑しくはない。

 

以下は、Wikipediaの資料による1404年(応永11年)以降の勘合貿易と主な出来事。

 

1404年 - 幕府船:勘合貿易日明貿易)開始
1405年 - 幕府船
1406年 - 幕府船
1408年 - 幕府船
1410年 - 幕府船
1411年 - 幕府船。

以降、足利義持の時期に断絶。

1432年 - 幕府船・相国寺船・山名船・大名寺院十三家寄合船(岩清水社家や細川家などの共同出資)・三十三間堂
1434年 - 幕府船・相国寺船・山名船・大乗院船・三十三間堂
1451年 - 天竜寺船・伊勢法楽舎船・九州探題船(博多聖福寺造営船)・大友船・大内船・大和多武峯船


1465年 - 幕府船・細川船・大内船。

1467年 - 大内政弘上京(応仁の乱)これ以降、細川氏大内氏との抗争時代になり、寺社船は派遣されなくなる。

 

1471年 - 島津立久琉球貿易統制の独占を幕命として受ける。

1472年 - 島津発給の渡海朱印状を持たない船の琉球への入港を禁じる。

1473年 - 琉球貿易統制権の確立

 


1476年 - 幕府船・相国寺勝鬘院
1483年 - 幕府船・内裏船
1493年 - 幕府船・細川船
1506年 - 大内船・細川船
1520年 - 大内船・細川船 1523年 寧波の乱寧波争貢事件:勘合を巡る細川氏大内氏派遣の朝貢使節浙江省寧波で争う)、勘合貿易が途絶

 

1534年 使琉球録の陳侃が来琉。


1538年 - 大内船 :1540年(天文9年)とも。日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ湖心碩鼎らを派遣。また、このときに「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と明に要請。


1547年 - 大内船:最後の遣明使船

 

 寧波の乱の後、貿易を独占することとなった大内氏の本拠である山口は応仁の乱で荒廃した京都よりはるかに繁栄することとなったと言われている。

しかし、琉球航路を独占する島津氏が細川氏の遣明船が断絶した後も琉球貿易を独占していた事実を無視することはできない。

 

元亀元年(1570)、元亀三年(1572) 琉球渡海船規制の再強化「薩摩の印判を持たない渡琉船の船財は没収し、貴国の公用に当てられたし」ー島津国史

 

天正三年(1575) 島津の印判を持たない渡琉船への入港許可についての詰問状。

 

 

このような薩摩の琉球航路支配が謝杰『福州府志』の「琉球に日本館があって、群衆数百人が冊封使のふねを待っている。これがそのまま商売の市となるのだが、出入りする人たちは刀剣を持っていて、琉球人はこれを恐れている」という記述となって表れてくる。

なお、謝杰天正七年(1579) に冊封使として来琉している。上の『福州府志』が記されたのは翌年のこと。

 

天正十九年(1591) には、天下人秀吉に「琉球は薩摩の所属り。速やかにその兵を徴し征明の役に従はしめよ」と島津氏経由で軍役負担を命じられるに至る。

 

薩摩の琉球尖閣航路の独占支配は、1441年の嘉吉の附庸以前にその端緒を発見でき、15世紀の後半には足利幕府(細川家)公認のもとに確立していたと考えられる。つまり、南北朝から応仁の乱倭寇の興隆と取締り)に至る日本の分裂と戦乱の収拾は、島津氏にとっての交易政策・琉球尖閣航路統制と一体のものであり、琉球王国南北朝時代には日本の歴史の荒波のなかにあったと云う事だ。

 

 

 

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画像は下記のもの

http://hiokishi-kankou.com/wp-content/uploads/2011/01/shimazu.jpg

 

青緑の文字で記している人物や語句は九州北部から明朝や朝鮮とかかわったと考えて良い勢力。南朝勢力に加わっていたり、瀬戸内から九州北部に地盤を持っていたと考えられる人物や勢力に注目してみた。海外交易上の島津氏や尚氏のライバルという事になる。

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