豪州国立図書館所蔵
Title:Stanford's map of eastern China, Japan and Korea : the seat of war in 1894
Author:Stanford, Edward, 1827-1904
オンラインの地図のロケーション: https://nla.gov.au/nla.obj-231212461
全体図
尖閣部分拡大図
所見:
▼尖閣が台湾付属島嶼ではなく先島諸島、 Majico Sima Group (宮古島グループ)だと認識され青緑色で一纏めにされている。
▼Majico Sima Group は、"(To Japan)" の表記の通り、尖閣諸島も含め日本に属するとの認識が確認できる。
▼地図左下方に「1894」の文字。発行年が1894(明治27)年であることが確認できる。下関条約1895(明治28)年3-4月に談判が開始され調印された前年に英国が「尖閣諸島は先島諸島の一部として日本領である」と認識している証拠である。なお、日本政府による尖閣国有化は1895(明治28)年1月。
▼日清戦争の講和と賠償金に関与した英国。
黄海海戦の後、1894(明治27)年11月上旬から米、英、露が調停のための非公式の斡旋を開始している。1895(明治28)年3月から始まった正式の交渉では講和条約による賠償は調印の前々日まで調整が行われ、支払方法の交渉は4月15日まで続いている。賠償金が清国の賠償能力を超えていたため難航したのだ。結局、日本は清国に対して3回分割で英ポンド金貨を支払わせている。
1873(明治6)年の台湾出兵が英国の斡旋で清国から賠償金を得た後も、日清戦争後の下関条約でも英国の斡旋があり、清国からの賠償金はいずれも英ポンド金貨で支払われた。
清国は、その支払い能力を越える賠償金を払うのに外国からの借款に依存せざるを得ず、清国外債の発行や引き受けに英国人ロバート・ハートの活躍があった。ロバート・ハートは英国人でありながら清国政府の総税務司という特殊な立場に有った人間である。
1898(明治31)年春の第3回目の1600万ポンドの支払いは、威海衝を占領していた日本軍の撤退条件となっており日清という当事国のみならず、関係国(英国と三国干渉の露・独・仏)にとっても重要な意味を持っていた。
尖閣諸島の帰属については、台湾出兵時に斡旋をした英国のみならず、下関条約に間接的に関与した国々にとっても関心事であったはずだ。
▼当事国である清が尖閣を自国領と認識してなかった証拠については次を参考にして欲しい。