この翌年明治十九(1886)年に長崎事件が起きます。
賠償金は互いに相手の損害に対し出すこととなったのですが、日本からは52500円、清国から15500円とどっちが加害者なのかわからない割合だし、清の要求で日本警察官はこの事件以降帯刀してはいけなくなりました(相手国の官憲の装備に口を出し、変えさせるというのは、いくら帝国主義の世でも内政干渉です)。もちろん清からは謝罪はありません。
当時の国力の差がこのような結果を招いたのです。そんなに国力差があったにもかかわらず、尖閣を領有する意思表明さえしなかったのですから、歴代大陸政権がいかに尖閣に興味を示していなかったかがわかると言うものです。
下記はいしゐのぞむ氏のブログです。
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投稿 by Ethan Kaiunmanzoku.
2016-7-2 コメント:明治十八(1885)年九月六日の上海『申報』記事については、現在チャイナ政府が主張しているような事実「日本の国旗が尖閣に立てられた」がなかったことが國吉まこも氏の「明治十八年九月二十二日大阪朝日新聞記事」発見で明らかにされています。
本件については長崎純心大学石井准教授氏のブログをご参照ください。