画像は、東洋文庫 第4冊57頁 倭寇を偲ぶ烽火台(福州) 1927年4月撮影
2013年3月13日のFBへの投稿
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いしゐのぞむ氏 尖閣研究報告
籌海圖編(1562年)の沿海山渉圖(四書全書、台湾商
平成25年3月長崎純心大学比
いしゐのぞむ氏(比較文化学科准教授)の報告書より複写
海防書「籌海圖編(ちゅうかいずへん)」内「沿海山沙圖(えんかい さんさず)」
その地図中の赤い点線部は明の領土の境界線、赤丸部分は明の
上半分の島嶼には駐屯地はない。
⇅ 対照的
下半分には、「巡検司」「水寨(とりで)」「烽堠(烽火を上げる物見台)」「所」「營」「堡」などの駐屯地が列記される。
また、明朝の領土は海岸までと「大明一統志」などの地誌に明記されているので、上半分の島嶼は全て明朝の領土外であり、海防能力の外側(海防管轄外)にあることを示している。
第一列島線を脅かすことに余念のないチャイナだが、彼らが歴史戦を挑めば第0列島線の歴史的文化的意味を問わざるを得なくなる。
古来、東ユーラシアにできた王朝にとって「海」は「界」であった。
陸上勢力である彼らは長く「洋」を知らず、陸の果てをもって「界」とした。「海」がそれである。
したがって、歴代王朝は例外なく海岸線を国境とし、沿岸から数十キロ離れた島嶼ですら権力下に入れることは稀であった。
香港やマカオ、厦門といった沿岸部においては、常に倭寇勢力と接し、大河の沿岸部は大陸の奥深くまで度々侵略支配を許していた。近代においては西洋列強が倭寇に代わったに過ぎない。
歴史上、東ユーラシア沿岸部は常に外部勢力との力の均衡点であったと言える。
そうであってみれば、江南人たちが歴史・文化をチャイナと異にするのは当然であり、彼らが「中国の一部ではない」と主張する充分な根拠となりえるのだ。
現在、香港やマカオ、あるいは越人の血を引くと考えるカントニアの概念を持った若者たちが独立運動を起こすのも至極当然のことであると言える。
参考図書
『尖閣反駁マニュアル百題』いしゐのぞむ著 集広舎
第三部 史料百題指南 十四 「福建沿岸圖の下半分に海防陣 上のすみの尖閣に海防は及ぶか」 196頁参照