戦国時代の後期の琉球と幕藩体制の確立
1620年代に”やまと化”した沖縄の”やまと化”を禁止した薩摩藩
1609 薩摩、琉球に3,000名余りの兵を派遣し、首里城を落して、尚寧王を捕らえる。薩摩藩の琉球支配の確定。
1617 徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍が1609年の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことを公式に容認する。
1624 薩摩藩 琉球に対して政治と風俗両面のことに関する「定」に、「日本名を付け、日本支度仕り候は、かたく停止たるべきこと」と”やまと化”を禁止。
1632 加藤忠弘改易
1633 奉書船以外の海外渡航の禁止、渡航者の帰国制限
1634 琉球 徳川将軍に対する慶賀使・謝恩使を送る(琉球における参勤交代の始まり)。
1635 江戸幕府参勤交代制の確立
1638 島原の乱
1641 鎖国の完成
薩摩藩は、『遠国の王』ですら将軍家に服属していると世間に信じさせるため、1634年以降の徳川将軍に対する慶賀使・謝恩使では、デモンストレーション効果を狙い、『遠国の王』を装わせるために行列ではわざと使者とその従者に中国風の衣装を身に着けさせた。
琉球支配が確定した後も琉球から歴代大陸王朝への進貢貿易を続けさせるためにも薩摩藩は折に触れて、琉球の人々の”やまと化”を禁止する形式で中国風の風俗を強制している。
例えば、1620年代には、一般の琉球の人々が日本名をつけ、やまと言葉を用い、和歌も作るというように、その風俗が”やまと化”していたため、薩摩藩は琉球に対し、1624年には早くも最初の風俗に関する「定」を出している。
その後も、琉球の”やまと化”があまりに顕著なため、薩摩藩は何度もお触れを出し、異国風の風俗を強制しなければならなかった。
日本語を話す日本人である沖縄の人々が”やまと化”するのは自然であるが、それを、少なくとも冊封使が沖縄を訪れる際と、慶賀使として沖縄から幕府に向かう時には禁止させ、外交政策として異国の衣装をまとわせていたということになる。
本件は、私のブログ「Japan / 琉球中山王両使者登城行列 The Parade of the Ryukyu King's Delegation to Edo Castle in 1710.」に紹介してあるので、ご興味のある方は下記へどうぞ。
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画像は「絵本豊臣琉球軍記」から