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天寿国繍帳銘文から知る 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘文は、太子、太子の母、膳夫人の「天寿国」における称号を記した

その光背の銘文に推古天皇の名が記載されていない事をもって、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説には承服しがたい。

 

奈良県斑鳩町中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品、天寿国繍帳銘文に推古天皇の名があり、天寿国繍帳が推古天皇によって作られたと明白なら、ほぼ同時代の法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」とあるのは聖徳太子であると考えるのが至当だ。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記すことが可能になったのだ。そう解釈する。

つまり、

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における称号を記した。」それぞれ、法王、太后、王后である

と考える。

生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像は天寿国への「太子の(法王としての)往生の様子」という意である。推古天皇の名が記載されていないのは、天皇がこの世の天皇であり天寿国にまだ往生していないからである。記しようがないではないか。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記せるのだ。

 

天寿国繍帳銘文
Wikipediaより

天寿国繍帳 - Wikipedia


銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている。

以下に原文読み下しの一部を引用する。

辛巳十二  月廿一癸  酉日入母  孔部間人
歳(ほし)辛巳(かのと・み)にありし十二月二十一(日)癸酉(みずのと・とり)の日のくれに母の孔部間人
 王崩明年  二月廿二  日甲戌夜  半太子崩  于時多至
王(あなほべのはしひとのみこ)崩(かむざ)りましぬ。明くる年の二月二十二日甲戌(きのえ・いぬ)の夜半に太子崩りましき。時にたち
 波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天  皇前曰敬  之雖恐懐
ばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う
 心難止使  我大皇與  母王如期  從遊痛酷  无比我
心止(や)みがたし。わが大皇(おおきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎ)りしが如く從遊(じゅゆ)せしめたまう。痛く酷(から)きこと比ぶる無し。わが大
 所告世  間虚假唯  仏是真玩  味其法謂  我大王應
王の告げたまいしく『世間は虚假(こけ)にして、ただ仏のみこれ真なり』と。その法(のり)を玩味(あじわ)うに、わが大王は
 生於天壽  國之中而  彼國之形  眼所叵看  悕因圖像
天寿國の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。而(しか)るに彼の國の形は眼に看(み)叵(かた)き所なり。悕(ねが)わくは図像によりて
 欲觀大王  往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子
大王が往生したまう状(かたち)を觀(み)んと欲(おも)う」と。天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。
 所啓誠以  爲然勅諸  采女等造  繍帷二張  畫者東漢
啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」と。勅して諸の釆女(うねめ)らに繍帳二張を造らしむ。畫(えが)ける者は東漢(やまとのあや)の
 末賢高麗  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻

末賢(めけ)、高麗(こま)の加西溢(かせい)、また漢(あや)の奴加己利(ぬかこり)。令者(つかさひと)は椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたのくま)なり。

+++++便宜のためWikipediaから引用の文意+++++
辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。大王太子)は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって大王太子)の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳(ぬいもののかたびらふたはり)を作らせた。画者(ゑがけるもの、図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(つかさどれるもの、制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはたくま)である。

+++++引用終わり+++++

 

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この章は、下記のブログ記載内容につき質問があり、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説についての私見をコメント欄に記載したが、それを書き改めたものである。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではない。
生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像天寿国への「(大王と記されている)太子の往生の様子」という意である。

その当時の人々が、仏教の保護者として「その人」の往生を描くことの意味。

それこそ、「その人」の存在が「聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではないことを示している。

 

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