清少納言の余談(昔memoとして書き留めたものなので引用元不明)を書き留めておく。
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清少納言は、引退後、兄の清原致信(きよはらのむねのぶ)と同居していたのですが、藤原道長の日記『御堂関白記』によると、1017年3月8日に、白昼堂々7、8騎の騎馬武者と数十人の徒歩の者たちが清原致信の家宅を襲撃し致信を暗殺。致信が発見されたときには郎党共々既に絶命していたとのこと。ひょっとしたら暗殺集団が殺害の証拠に首を持ち去って首なし死体だった可能性すらあります。
さて、清少納言ですが『古事談』によれば清少納言は折あしく兄致信宅を尋ねてその現場に居合わせ、目の前で兄が殺害され(首を取られ)るのを目撃した(かもしれない)可能性大なのです。それだけではなく、当時の40代50代は老人ですし、おまけに出家姿だった清少納言は暗殺集団に致信の男の身内と間違えられ殺されかけたといいます。
彼女はとっさに下半身をまくり女性器を見せ「女だ、女だ」と訴えて難を逃れたとのことです。見せたくないものを見せた彼女も災難でしたが、暗殺集団も見たくもないものを見せられて迷惑だったでしょう。
さらに『古事談』では、清少納言は晩年は荒れはてた粗末な家に住んでいて、あるとき家の前を通りかかった若い貴族が、「清少納言も落ちぶれたものよ」と家の前で話ををすると、鬼と見間違えるような老婆(清少納言)が出てきて、「なぜ駿馬の骨を買おうと言わないのか!」と怒鳴り返されたというのです。
名馬は骨になっても買われるという中国の古い故事をふまえ、「老いたるとはいえ自分の価値は衰えてないぞ、なぜ買わないのか」と言う意味だそうです。
プライドの高さはさすが清少納言だと頷かされるお話です。真実はわかりませんが、そういう記述があるということです。
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当時の貴族は優雅なだけではなく暴力も躊躇いませんでした。和泉式部の身内もそんな話がありましたね。
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上に「荒れはてた粗末な家に住んでいて」と書きましたが、清少納言は子供もいて結構裕福な老後を送っていたという言説もあるんです。「駿馬の骨」のくだりを引き立てるために後代の脚色があった可能性もあります。原因は紫式部が清少納言を「知識を鼻にかける」女性として評したことにあるようです。真実はわかりませんが、男のコンプレックスが見え隠れしてるようにも思えます。
メモのメモ:戰國策.燕策
古之君人有以千金求千里馬者。三年不能得。涓人言於君曰、『請求之。』君遣之。三月得千里馬、馬已死。買其骨五百金、反以報君。君大怒曰、『所求者生馬。安事死馬而捐五百金。』涓人対曰、『死馬且買之五百金、況生馬乎。天下必以王為能市馬。馬今至矣。』於是、不能期年、千里之馬至者三。今王誠欲致士、先従隗始。隗且見事、況賢於隗者乎。豈遠千里哉。
古の君人に千金を以て千里の馬を求むる者有り。三年にして得ること能はず。涓人君に言ひて曰はく、『請ふ之を求めん。』と。君之を遣はす。三月にして千里の馬を得るも、馬已に死す。其の骨を五百金に買ひ、反りて以て君に報ず。君大いに怒りて曰はく、『求むる所の者は生馬なり。安くんぞ死馬を事として五百金を捐てんや。』と涓人対へて曰はく『死馬すら且つ之を五百金に買ふ、況んや生馬をや。天下必ず王を以て能く馬を市ふと為さん。馬今至らん。』と。是に於いて、期年なること能はざるに、千里の馬の至る者三ありき。今王誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。隗すら且つ事へらる、況んや隗より賢なる者をや。豈に千里を遠しとせんや。」と。
昔の君主に千金を出して千里の馬を求めさせた者がいました。三年たっても得ることはできません。君主の使用人が君主に言いました『之を買い求めにいかせてください。』君主は彼を送りだしました。三か月して千里の馬を見つけたましたが、馬は既に死んでいました。其の骨を五百金で買い、戻って君主に報告しました。君主は大いに怒って言いました『買い求めさせたのは生きた馬である。どうして死馬に係って五百金を捨てたのだ。』使用人は答えました『死んだ馬ですら之を五百金で買ったのです。まして生きた馬ならなおさらです(猶更高く買うでしょう)。天下の人は必ず王様を馬を(良く知り)高く買うことができると見なすでしょう。馬は今すぐにも、やってきます。』こうして一年経たないうちに、千里の馬が三匹やってきました。今王様が誠に士人を招こうとお考えなら、まず真っ先に隗から始めてください。隗程度の者でも礼遇されるのです、まして隗より賢い者は猶更です。どうして千里の道をも遠いとするでしょうか?」