椿説弓張月 曚雲の最後の場面
曚雲が慌てて風を起こし、雲を呼んで空中へ上ろうとするところを舜天丸は「姑巴嶋」で三社の神に祈念を込めた桃の枝で作った矢に義家と記した小金の札を取添え、弓を満月のように引き絞って放つと、どこかに鶴の鳴き声がして、その矢は流れる星のように、曚雲の咽喉を砕いて深く突き刺さったので、曚雲は地上に転げ落ち、為朝は宝剣をもって九度、刺し通し、遂にその首を切り落とすと、一天俄に掻き曇って、大雨が降りだした。
画像は下記より
椙山女学園大学デジタルライブラリー 椿説弓張月 前編六巻・後編六巻・續編六巻・拾遺六巻・残編六巻
http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/dl/Yumihari/Zan/show.php?s=18&e=30&fn=zan4/019
ここに出てくる「姑巴嶋(こはしま)」だが、物語では、為朝、舜天丸、起平治の一行は、曚雲の千里眼を怖れて姑巴嶋へ潜伏して、そこから琉球に向かうという筋立てだ。
この「姑巴嶋」、馬琴が物語の舞台としたのは尖閣諸島の久場島でないと言い切れるだろうか。
ここに有力な証拠がある。
画像は下記のサイトで見られる。画像の赤線と囲みはスクリーンショット後に描きいれたものだ。
椙山女学園大学デジタルライブラリー 椿説弓張月 前編六巻・後編六巻・續編六巻・拾遺六巻・残編六巻
http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/dl/Yumihari/Zan/show.php?fn=zan1/018&s=7&e=18
為朝と寧王女(ねいわんにょ)が、佳奇呂麻(かけろま)の林太夫(りんたいふ)が操る船で、共に姑巴嶋へ向かうところを書き記したページだ。
船は、東馬歯山・西馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米島)、度那奇(渡名喜島)、安根呢(粟国島)を抜けて、姑巴嶋へと向かっている。
文中には、神の導く快速の船で「数十里の海路」を半日ほどと書いてある。実際の尖閣諸島までは沖縄本島近くから四百数十キロなので「百数十里」となるが、注目していただきたいのはそこではない。
琉球の国外への門戸である東馬歯山・西馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米島)、度那奇(渡名喜島)、安根呢(粟国島)を抜けて船が出ていっているという事実である。
これは先にブログで書いたが、
「三十六島此門戸、絶類竿塘石虎五」
「三十六島、此れぞ門戸なり、はなはだ類す竿塘と石虎五」と李鼎元が詠んだ島々そのものである。
つまり、馬琴は姑巴嶋を、超能力者である曚雲の千里眼の能力の及ばない遠島として椿説弓張月に描いたのである。尖閣諸島の久場島の可能性が充分ある。
下記はWikipediaから抜粋引用する。
『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本。
文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5篇。
鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという伝説がある)するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。