「兎度和邇上」*の和邇の上を渡るウサギは因幡のウサギ「因幡之菟」なので、
(稲を持ちし倭、丸木舟の上を渡る)とすれば、意味が一層鮮明になる。
稲穂を持った日本人の祖先たちが、和邇と呼ばれていたウツホフネを多数連ねて、わたつみ(東シナ海)を渡って来る様子が見えるようである。
和邇と船は同じ(船は和邇である)ことは、この因幡の白兎の物語に謎々の形ではっきり書いてある(次章の「和邇とは船だ(船は和邇である)と因幡の白兎の物語に書いてある」を参照願います)。
和邇であるウツホフネに「菟乍歩伏寝」あるいは「菟乍穂伏寝」という意味が隠れているとしたら、稲を持って移動する船の中で伏し寝ながら、日本へと渡って来たことになる。
倭が渡ってきた土地を「菟が度る」つまり「うと」と呼ぶ。その地名は九州を中心に多く存在する。有名な「鵜戸」であれば、山幸彦が豊玉彦が支配するわたつみの国から鰐に乗って帰り着いた場所とほぼ一致する。
この因幡の白兎は、天孫と共に稲穂を持って日向の国に降りて来た一族だ。
天孫降臨の話で、
邇邇藝命(ににぎのみこと)に和邇の「邇」の字が充てられていることと、符合する話に違いないと思っている。倭と邇でわたつみを度ること。和邇という表現が船と操船手の両方を指すのは、おそらくそのためであろう。
関連する日本書紀の読み下し文を下に記すと、
天照大神は手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が御子よ、宝鏡を視ること、まさに猶(なお)我を視るが如くすべし。與(とも)に床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福し、天児屋命・太玉命に、「惟(これ)爾(いまし)二柱の神、亦(また)同(とも)に殿の内に侍(さぶら)いて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。
また、「我が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以ちて、また、まさに我が御子に御(しら)せまつるべし。」と勅す
とある。
「惟爾二柱の神亦同に殿の内に侍いて」の表現の中には和邇が潜んでいるようだ。
「穂を以ちてまたまさに我が御子に御せまつるべし」には稲穂だけではなく我が御子(倭)がいる。
まるで、時と場所を変えて同じドラマが上演されているような気がするのは、古事記が日本人の歴史的大事件を何度も何度も繰り返し伝えようとしているからではなかろうか。
本稿では余談となるが、上記の様に考えをめぐらしていくと、天孫降臨の
「天八重雲(あめのやえくも)を押し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)に天降き」
に出てくる「天八重雲(あめのやえくも)」とは海原の波風で、「道(ち)」とは海の道と考えた方がよさそうである。
「wo(う)」「わたつみ」と「ウツホフネ」については、すでにいろいろ述べてきているので、それぞれを参考にして欲しい。
「wo」について:
日本各地に残る”u”と発音する地名(例えば「宇」「鵜」「于」他)は、『倭の』という意味を持つ。倭は”wo”と発音した。
陳侃の『使琉球録』雑記 『わだつみ』と読める『倭的海(日本の海)』と書き、16世紀の明人にチャイナ語で発音させれば、中世沖縄方言の『皇帝』になる
皇帝「倭的毎」は、倭大海 倭太陽を音にした、「海神(わだつみ)」の伏字?古代における「大日神」の読みが「大海神」と同じだ!
倭奴国は、鵜戸にあった。 沖縄方言から推測する事実:古代日本では「倭」を wo と発音していた
狗奴国は gauto koku と呼ばれ、「そねむ弟の国」の意味で、鹿児島県志布志市の地名「猜ヶ宇都」に名を残している通り、志布志市付近にあった
「わたつみ」と「ウツホフネ」:
山幸彦は空船(うつほふね)? 鹿児島神宮として知られる大隅正八幡宮の「大隅正八幡宮縁起」の考察
古代日本と琉球 海彦(海佐知)と山彦(山佐知)の物語を解釈する
大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の「太陽神の子供」と宮古の伊良部島の昔話「太陽神の嫁」の酷似
天孫降臨 日向三代 海幸彦と山幸彦 海神(わたつみ) 宮古の伊良部島の「太陽神の嫁」 大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の「太陽神の子供」
2016年12月3日 和邇の謎々の説明を追加した。
同日午後 追加した「和邇の謎々の説明」をこの章から除くことにした。和邇の謎々は「和邇とは船だ(船は和邇である)と因幡の白兎の物語に書いてある」と題して、別途に次の章で説明することにした。
*2016年12月4日参考注意書きを追加: 「兎度和邇上」*は、「爾吾蹈其上」(しかして あれ そのうえを ふみわたる)として、下記の中で説明しておりますのでご参照ください。
因幡の白兎 兎と鰐 大国主命 解説 - kaiunmanzoku's bold audible sighs