マキャヴェリズムは政治を宗教から切り離した。
そもそも全ての教条主義から政治は切離されるべきだろう。
教条とは「独善の世界」だから、「独善」を教義とする共産主義が「君主論」(16世紀)以前の野蛮な理論になってしまったことは明白だ。
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その説明をしておこうと思う。
もちろん、マキャベリズムについては世の大家が説明しているので私の出る幕はない。
1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。
2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。
3.なぜ共産主義は独善的か。
上記を私なりに説明してみよう。
1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。
世の中には、人類誕生から現代までの時間と地球という人類の住む広大な空間を無視して、自分たちの文明のもつ価値観だけが至上の存在であると位置づけ、それを実現しようとする人々がいる(しかしその理想は絶対に実現できない)。彼らは、その実現不可能な社会を理想とし、その価値観を維持する(他者が歴史と共に蓄積した経験則を過小評価するか無視する)ために取り決めたルールを他者に強要しようとする。
これを「独善」という。その価値観を「教条」という。
つまり、彼らが、人類の生物学的限界を無視しているにも拘らず、これが人類(文明人)共通の価値観だとして押し付ける、その価値観を「教条」といい、その押し付けるエネルギーを「独善」という。
更に換言すれば「教条」とは「独善的価値観」のことである。
教条の性格・性質のひとつは、世の中の多面性と異種の共存共栄という視点の決定的欠如だ。「味方・敵」や「支配・被支配」「搾取・被搾取」「富・貧困」「純血・穢れた血」「善・悪」「白・色」「光・闇」「文明・野蛮」「正統・異端」という徹底した二面論的価値観が支配する世界観がそれだ。「右でなければ左」、「左でなければ右」という発想の事だ。
一旦、教条が世の中(脳内)を支配し始めると、その社会では事実や真実を見極める事より、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業が優先される。自己正当性の確認作業だ。それが教条=「独善的価値観」の第二の性格・性質である。私は、ここに至った社会を全体主義移行社会と呼び、そこでおこなわれる自己正当性の確認作業を全体主義(ファシズム)と定義する。
そして、その確認作業は自己の正当化のために行われるため、その集団や社会に必須のものとして強迫観念化する。自己正当性の確認作業は強迫観念化する。その集団や社会の存在を維持のために必須であるから、その脅迫観念化も必然である。結果として、その脅迫観念がその集団や社会を支配する段階まで続けられ、さらに教条を強化する。つまり、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する。全体主義社会の完成である。
2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。
この説明は簡単だ。
人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神(の子)のうつし身でとして作られた」。
だから、人が理論に基づき理性を働かせ社会を変革さえすれば、「人間の情動全てがコントロールできる」。
そのような妄想を抱いた人々によって作られた妖怪が共産主義ということだ。人間が神の代わりに社会悪を定義して、それを罰しようとすれば独善は避けられない。
#マルクス
妖怪生みの親。妖怪が殺人を好む人類の敵になることを知らずに世を去る。理想の実現に独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その誤謬を歴史が実証した後も狂信者は絶えず、彼らによって思想をアヘン化(教条化)することには成功した。
#共産主義
平等公正を理想とするが、平等の実現を力で強制するため、結果として平等や公正さを「指導」する行政官が平等や公正以上のものを手に入れ特権支配階級化する社会が誕生する。その階級の既得権維持のため暴力や拷問が正当化される。
独裁は、その性格上(一旦、教条化した思想が社会を支配してしまえば、自分たちの正義、つまり独善、を実現するために、一番簡単で確実な方法だから)個人崇拝もまた必然的である。人類は世に共産主義を標榜する国家が現れるたびごとに、個人崇拝と思想の教条化がおこなわれることを目撃してきた。
共産党員と呼ばれる「平等や公正さを取り仕切るはずの行政官」は、ヒエラルキーのトップに君臨する共産党委員長という「個人の権力(独善)への奉仕者」であり、自己の地位を高め、あるいは維持するために共産主義の一層の教条化を進める「カルト信者」と化してしまう。
独善的教条社会(教条が支配してしまった社会)では、社会の現実と目指すべき理想とのギャップは、洗脳と暴力によって埋められ、党員と呼ばれる支配者層は事実よりも、捏造や取締りによってもたらされる成果や利益を互いに競うことで独裁と独裁者に貢献することとなる。
事実や成果は証拠によって証明されるのではなく、主張や強引な「こじつけ」によって捏造される社会が出現する。
捏造による矛盾の解消は、それを指弾しようとする者を粛清することによって行われる。だから、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する。
民衆の不満は、内外に反革命分子や分離主義者、帝国主義、軍国主義等々、様々なレッテルを貼られた「敵」を捏造することで逸らされる。このため共産党には、常に「敵」の存在が必要とされる。自分たちの価値観に沿って動いていない者は全て「敵」と判断される。自己正当性の確認作業のせいである。周りの全てが敵だからこそ独善は機能するのだ。
共産主義の教条化は上記のようにいたるところにその存在を発見できる。
30万人虐殺の南京や「統一中華」や「中国の夢」で語る領土領海の広大さ等々、共産主義者が荒唐無稽な作り話が好きなのは、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業=自己正当性の確認作業のせいである。
それは自国民弾圧時の被害の過小さにも表れている。天安門事件や天津大爆発、チベットやウイグルでのジェノサイド等だ。自己正当化の確認作業の結果としてもたらされた被害は常に過小評価され、得られた利益は過大評価されて来た。自己正当化が正当化のための正当化だからだ。
これらは、教条主義のなせる業であり、カルト思想独特の独善という世界観のせいである。
共産主義も教条として政治から切り離されるべきだ。カルト性(独善性)はどの宗教より強力で有害だ。
3.なぜ共産主義は独善的か。
聖典の世界観から逃れられないマルクスによって作られたのが共産主義。そこでは神を否定するが「人が神に代わる」。だから「独裁」が必要。また、聖典が善悪二面論だから、善の勝利のために階級闘争は必須となる。
共産主義の唯我独善の世界観はカルトそのものだ。平成31(2019)年1月28日のメモ。
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マルクスの共産主義は、人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神のうつし身(神の子)として作られた」という善悪正邪二面論的世界観の支配する聖典の社会に生まれた「無神論的人間理性崇拝」の一形態だ。
そう、ダーウィンが進化論で聖書に記された天地創造を否定したように、「科学」を用いて、社会の矛盾が次の社会を生み出すという、擬似進化論的社会進化を論じたはずのマルクス、無神論者であるはずのマルクスは、ついに自分が生まれ育ったユダヤ社会の聖典、旧約聖書に描かれた善悪二面論的精神世界を越えることはできなかったのだ。
だから、人が理論に基づき理性を働かせて社会を変革すれば理想郷が生まれ、そこでは「人間の情動全てがコントロールできる」と考えた。そのような空想(妄想)を抱いたマルクスが作った妖怪が共産主義といえる。人が神に代わるのだ。神を否定したうえで。だから「独裁」が必要なのだ。また、善悪二面論だから階級闘争も必要となるのだ。実際には、階級闘争の手段として、その帰結として、階級を指導するとされる独裁者や特権階級を産みだしてしまうにも拘わらずだ。
理想社会建設と言う目的のために手段を厭わない独善。嘘や暴力、抑圧や殺人を自己正当化し恥じることのない妖怪が誕生する。その事すら正当化してしまう。それが共産主義だ。
そこでは、階級闘争は神の率いる天使と悪魔の戦いを、共産党の指導による労働者・農民と資本家・帝国主義との戦いに模しているだけなのだ。
共産党の指導が絶対正義のように扱われ、その指導に反する者たちを「敵」と断じて苛酷な扱いが出来るのは、聖典の善悪二面論の世界で神を演じているからなのだ。演じるのは妖怪と化した人である。
マルクスは、人類史上最悪の殺人妖怪を生み出して世を去ったが、理想の実現に(人が神に代わる)独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その矛盾が歴史上で幾度も実証された後も狂信者は絶えず、自らの空想をアヘン化(教条化)することには成功したと言える。
そう、宗教はアヘンと言い、神を否定したはずのマルクスは、ついに科学となるべき自身の思想を実証できないカルト教祖と化したのだ。
つまり、マルクスが生んだ共産主義は空想から宗教へ、さらに宗教からカルトヘと思想を変質させたことは、社会「科学」的に間違いないだろう。
上記のベースになっているのは下記の過去のブログ。