その専門性ゆえに権力から中立的であったり、独立した権限を与えられた(①専門家集団の然るべきポジション)への就任資格は、明示的、暗示的を問わず、全て(②その専門家集団)が独自に決めた手続きや基準で(②その専門家集団)の中で決められている。
したがって、内閣の長たる首相が(①専門家集団のポジション)に就任する者を決める時は(②その専門家集団)が推挙する者から選ばねばならず、いったん任命がなされたなら(②その専門家集団)の許可がなければ首を切ったり、降格できない。
上記のような組織人事が、慣習として現在の日本国の行政府に存在するなら、その組織の人事運用は、憲法違反である。たとえ、そのように明文法で規定されてあっても憲法違反の疑いが濃いと言わざるを得ない。
本来「中立性」や「独立性」は、時の世論の盛り上がりや政治家の大衆迎合主義を排して法に沿って行動する意味合いで用いるべき言葉なのだ。国民主権下の全ての組織は、ただひたすら国民主権下で成立した法に基づき、国民の利益に奉仕しなければならない。時の世論の盛り上がりを忖度して法を曲げてもならないし、外国勢力の様々な圧力や、政治家が利益誘導を図ったり、大衆に迎合する解釈を押し付けてくるのにも応じてはならないという意味なのだ。
憲法前文に曰く『そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。』なら、国民の代表者や国民の代表者の代表者にも充分な統制手段がない「中立公正な立場で独立して職権を行使する」組織は排除されねばならないだろう。国民の信託が皆無だからだ。
危険極まりない国民の信託が皆無の「正義」や「権威」が国民主権下の法の上に存在してはならないのだ。
統帥権や軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度等を理由に、主張が通らない内閣には大臣を出さないことによって、内閣(行政府)の意思決定をコントロールしようとした組織を誕生させてしまった先の憲法下の悪夢を思い出せば、上の①が陸海軍大臣、②が陸海軍、のことで、シビリアンコントロール(国民の信託を背景とする統制力)の枠外にあった組織だと理解できるだろう。
そういう意味で、国民の代表の代表たる内閣の「恣意」が「独立性」や「中立性」を害すると宣伝するのは可笑しい。
国民の信託を受けているのは専門家集団ではなく内閣なのだ。国民主権下の全ての組織は、ただひたすら国民主権下で成立した法に基づき、国民の利益に奉仕しなければならないのだから。
そして次の主張も分かってもらえると思うのだ。
組織の独立・中立を建前に「申し送り」や「指名」で昇進や登用が行われる慣例は甚だ非民主的で、シビリアンコントロール(国民の信託を背景とする統制力)に欠けた慣例である。
全ての行政機関は須らくシビリアンコントロール(国民の信託を背景とする統制力)を持った内閣の統制に服すべきだ。「国民の信託」こそが民主主義国家の権力の正当性なのだから。#検察人事 #日本学術会議 #行政改革