kaiunmanzoku's bold audible sighs

Be love Be peace Be harmony Be compassion Be joy

Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.

清仏戦争時  台湾でお茶を扱っていた英国商人の日記

お茶商人であった John Dodd が清仏戦争時(1884-1885)に書いた日記に、当時台湾北方の島に日本人が植民して、暮らしていたことが記されている事を発見した。

”Journal of a blockaded resident in North Formosa during the Franco-Chinese War”という本の195頁にその記載はある。

https://archive.org/stream/cu31924023514452#page/n205/mode/2up/search/Japanese

f:id:kaiunmanzoku:20151023213301j:plain

 

出典:

Journal of a blockaded resident in North Formosa during the Franco-Chinese War, 1884-5 by Dodd, John
Published 1888
Topics Sino-French War, 1884-1885
Publisher Hongkong : Printed at the "Daily press" Office

 

archive.org

その部分を書き抜いたのが下記だ。

The Palm Island* Pepowhans may already have been driven away from their homes by French, as we heard that notice was given to the inhabitants to quit. 
Their ancestors must have seen many changes in and about Kelung, for the Japanese are said to have had a colony or a settlement in the north of the islands;

Palm諸島に住む平埔蕃の人々はフランス人たちに追い払われてしまっていることだろう。というのは住民らに退去するよう命じる通知があったと聞いているからだ。

ここキールンの中や周辺部でも彼らの先祖たちは世の中が次々と変わっていくのを目撃したに違いない。日本人たちがこの(台湾島)の北の方に植民地だか居住地だかを設けたというのだから。

 

(注)

*Palm Island は、南シナ海パラセル諸島を指す場合もあるが、そのすぐ後ろの語 Pepowhans が台湾現住の平埔蕃と推測されるため、ここではそのまま訳した。

197頁には、キールン近くの北方の島を暗示する文が冒頭にある。

なお、平埔蕃については下のリンクをざっと参照した。

参照リンク:http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/1-pdf/06.pdf

 

John Dodd については、John Dodd (tea merchant) - Wikipedia, the free encyclopedia

 

この文章は、前後を読むと1885年の2月ごろの話と推測しているが。日記ではなくキールンの周辺部を紹介した(KELUNG AND NEIGHBOURHOOD)に続く(ROUND ABOUT KELUNG)という章に記載された文なので時期の特定は難しいと思う。

 

なお、いしゐのぞむ氏によるとこの記事に出てくるPalm島はほぼ今の和平島=社寮島とのこと(下のコメント欄)。

 

そして、1885年の9月に上海の新聞「申報」が、「台湾島東北側の小島に日章旗」と報道する。だから、その島の可能性が高いだろう。いしゐ氏の言う通り、尖閣ではない。

 

清仏戦争のさなかの海上封鎖された淡水にいる英国人の日記に出てくるのであるから、その島に日本人が住み着いているという事実は英国人社会や台湾の原住民たちに広く知られていたことを示す。当然、清仏戦争を戦っている清朝の知見の範囲であったことは容易に推測できるのである。この知見の範囲の島の領有権の主張すら当時の清朝は行っていた形跡がないのである。

単に新聞に載っていたというだけの情報ではなく、外国人を含む一般人にも広く知れ渡っていた情報として、この島が無主地だったという傍証といえる。

 

余談だが、後の大日本帝国海軍提督 東郷平八郎が天城に乗って10月12日に淡水から厦門へ向かったという記載も見つけた。

https://archive.org/stream/cu31924023514452#page/n61/mode/2up/search/Japanese

f:id:kaiunmanzoku:20151023220644j:plain

淡水は1884年10月18日に海上封鎖されている。

https://archive.org/stream/cu31924023514452#page/n65/mode/2up

 

Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.