【超訳】
大国主命 の兄弟は大国主をのけ者にして、「国」とはあいつには不相応だとばかり、大〇主(大穴文字=大穴牟遅)と「国」の字を抜いて呼んでいた。八上姫をものにしようとみんなで稲羽に出かけたときも、大国主にだけ袋を持たせ従者として従えていったくらいだ。
+++++読み下し文+++++
かれこの大国主神(おほくにぬしのみこ)の兄弟八十神(えおとやそかみ)ゐます。
しかあれども皆、国は大国主神において避けまつる。
避りしゆえは、その八十神おのもおのも稲羽の八上比売(やかみひめ)を婚(ま)かむとおもふ心有り、共に稲羽に行きし時に、大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ)に袋を負ほせ、徒者(ともびと)として率往く。
ここに気多の前(けたのさき)に到る時に、裸の菟(あかはだのうさぎ)伏せり。
+++++古事記本文+++++
故此大國主神之兄弟八十神坐。
然皆國者避於大國主神。
所以避者、其八十神、各有欲婚稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神負帒、爲從者率往。
於是到氣多之前時、裸菟伏也。
+++++以下は私の現代語訳++++
このオオクニヌシノカミ(大国主神)と言う方には兄弟が大勢いらっしゃった。
しかし、この兄弟がみなオオクニヌシノカミを「国」の字を抜いて呼んで、のけ者(1)にしていた。
のけ者にしていたという意味は、兄弟たちは皆それぞれに稲羽に住んでいた八神姫に求婚したいと思って、そろって稲羽に出掛けたというのに、オオクニヌシノカミ(大穴牟遲神)だけには(兄弟皆の)袋を持たせ、従者として引き連れていたということでもおわかりいただけるでしょう。
気多の岬まで来たとき、肌をさらけ出した兎(2)が伏せっていました。
(続く)
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(1)「避」と言う文字を「嫌う」や「いじわるをする」と言う意味で訳す文献が多い。その道の権威までが「権利を譲る」「身を引く」と訳しているらしく思えるのは、私には理解できない。悪意はない。私の浅学が原因かもしれない。
素直に「傍に寄らない」「対象のものや人から距離を置く」「持たない、使わない」という意味に解すれば、「一人ぼっちの状態に置く」「無視する」状態が目に浮かぶと思う。
国と言う字を「持たない、使わない」ということは、その文字で「呼ばない」こと、
「一人ぼっちの状態に置く」状態とは、「のけ者にする」ことである。
皆で「大国主神」の「国」という「文字」をも避けていたので、大穴むぢ神になっていたと考え、「のけ者にする」と訳している。要するに「大〇主神」で「おほあなむぢのかみ」穴が空いている主(文字)と言う意味である。(2016年11月25日追記)
(2)「裸」には「毛をむしる」と言う意味も「毛をむしられた」という意味もない。ウサギの体に毛が生えていることも哺乳類の大部分が体毛を全身にまとっていることは私も知っている。
ここで言いたいのは、「裸」が衣類を脱いだ状態、外気に(おそらくは日光に)肌をさらけ出した状態であるということであり、物語の続きに「ワニが我が衣服を悉く剥ぐ」と書いてあるということで、毛をむしり取ると書いていないということにある。このこだわりは、(日光を遮るものがない)海上や浜辺で衣服を略取されると日焼けで火脹れができるほどの火傷を負うという結果に到る、ごくあたりまえの推論と関係がある。
「菟」Wo あるいは To とは何者であるかを明らかに出来れば、私のこの主張の意味をお分かりいただけると思う。白兎と白戸が Wo と To の音と神社の神紋でつながっていく有様を伝える事が最終目標である。
11月29日 最上部に【超訳】を置いて、そこだけ読めばこのブログの趣旨がわかるようにした。
この物語は通説とは異なっていると思います。しかし、私に謬説を拡散する意図はなく、門外漢の視点を提供する試みがこのブログの目的です。仮説であることを前提にお読みください。