一般論として、自分たちの信条を他者に押し付けることは、たとえ宗教と言えども許されないと思う。
冒涜という言葉が発せられるとき、何が冒涜であるかについて意見が一致する社会であれば、それは冒涜なのであり、表現の自由は問題とならない。
しかしながら、現代の世界は価値観が多様な社会である。それがゆえに、冒涜という言葉がもともと客観性を欠く言葉とならざるを得ない。ここに表現の自由が問題となる背景があるのだ。
だからと言って、表現の自由が「いつでも」冒涜を超越するとは私は思わない。それは、冒涜の対象となる「聖なるもの」に対して、それぞれが思いを馳せればわかることだと思う。
「聖なるもの」も主観によって多様である。それこそ表現の自由という価値観も含めて「聖なるもの」であろう。ここに気付く必要があるのではないだろうか。
「聖なるもの」も客観性を欠くのだ。そうである以上、他者の「聖なるもの」をもある程度尊重しなければ社会が成り立たたなくなるではないか。
その時々に人類の到達した文明度に応じて他者の「奇妙な」価値観を批判する自由はあると思うが、あくまでも、その時代の文明度によるのではないだろうか。
「自分達の歴史文化が絶対的尺度(尺度=価値観)を持ったものであるわけがない」と謙虚になるべきである。他者に対する価値観の押しつけが西洋文明の悪いところだ。文明人を自称するなら他者の価値観に対してある程度寛容にならねばならない。
下記のような「科学者」に対しては風刺画もよいだろう。