愚弄、誹謗、挑発、嘲笑、扇情、猥褻、残虐を表現する自由は、
①税金を使う場で許すのも、
②公衆の面前で許すのも
③他者に対する尊厳を著しく欠く行為
で過ちだ。
芸術の芸術たる由縁は #人の尊厳、#文化の尊厳 にある。人の尊厳を愚弄してはならない。
芸術が人も文化も尊重しないなら、#普遍性 を担う価値はない。表現が文化を創造するのではなく単に破壊し、社会を危殆に陥れるなら、それは芸術ではなく #脅迫 であり、#恐怖からの自由と権利 を他者から奪う行為だ。ガソリン放火殺人を自由と呼ぶべきではなく芸術と呼ぶべきでもないのと同様だ。
#社会秩序破壊
国家、民族、社会がもつ文化や価値観を否定されれば、敵意を感じるのは歴史を見ても現実の日常社会でも感じられる話である。それを安全上の特殊事情と歪曲するのは、歴史や日常社会の否定であり、文化の否定である。
人の安全保障とは #恐怖なき生存 #欠乏なき生活 #人としての尊厳 を得られることだ。国家、民族、社会がもつ文化や価値観の否定は、チャイナにおけるチベットやウイグルの例を見ればわかる通り、大虐殺に通じる危険思想だ。生存や生活を脅かす恐怖や欠乏が芸術として展示されてはならない。絞首刑や断首の実演、人や生物を、死や恐怖や飢餓に意図的に曝す展示が許されないのと同様に、#人の尊厳、#文化の尊厳 は守られねばならない芸術の重大要素だ。それは命の尊厳そのものだ。#表現の自由 に制限がなく、命の尊厳さえ奪えるというのは暴論だ。
日本人の民族の象徴、三種の神器継承の精神を揶揄する展示物、日本、半島、大陸の先人たちの尊厳を虚偽の物語によって貶めようとする政治的展示物。どちらも国家、民族がもつ文化的価値観の否定であり、社会的動物である人の社会への帰属意識を破壊する行為だ。
人の既存社会への帰属意識を破壊する多量の政治的造形物の展示はソ連のレーニンやスターリン像、文化革命時の毛沢東像の例を挙げるまでもなく、ファシズム的表現であり、敵の肉体的殲滅を目指すプロパガンダである。#表現の自由 は #恐怖からの自由 を奪える免罪符ではない。
#表現の自由 が国家、民族、社会がもつ文化的価値観を否定してよいなら、人の安全保障、平和が保たれない。民族がもつ文化や価値観の否定は、大虐殺に通じる危険思想だ。チャイナにおけるチベット文化やウイグル文化の扱いを見ればわかる。民族殲滅を目指す類の(#恐怖からの自由 を奪う)プロパガンダに #表現の自由 などない。
それは日本におけるファシズム勢力による反平和行為、闘争行為と知るべきだ。
民族の文化的価値観を破壊する行為、すなわち #民族憎悪 は、歴然たる反平和行為、闘争行為、民族虐殺であると #大村秀章 #津田大介 は自覚しているだろう。既存社会に帰属意識を持つ者と持たない者を反目させ相互に憎悪させる目的がそこにある。