“その名を口に出してはいけない民族”が自然科学分野でノーベル賞がとれない理由は、事実を見ても現象を説明できる思考回路と言語を持っていないからである。
無意識を司る部分で「新たな分からないもの」を感じたら、例えば、視覚から入った情報を前頭葉で斟酌するより前に、脳幹が既成の枠の中で情報を処理しようとしてしまうのである。新しい概念が用意されていない場所、つまり脳幹で止まってしまう。あるいは前頭葉に「言語」が用意されていないがために、新しい現象に対応できないのだ。
したがって、個々の現象は旧来の現象の亜現象として処理されるのが限界だという訳だ。最初から物事の成り立ちの因果関係を旧来の現象の亜現象であると取り違えてしまうわけだ。
自然科学でも社会科学でも同様だ。
発見にはある種の「言語能力」が必要だ。新しい出来事や少し違う出来事を新しい概念として捉える、客観的に「これは新しい出来事だ」とそう捉えて、それに新しい言葉を与えようとする能力だ。しかし、彼の民族はそういう「言語能力」を決定的に欠いているのではないかと疑っている。
新しい概念を受け入れるというのは、究極的な客観視なのだ。
客観的に見ることが出来ないと物事の成り立ちの因果関係を取り違えてしまう。社会科学でも自然科学でもこれは同様だ。
事実を目の前に突きつけても認めようとしない人はいる。未だに地動説を信じ、進化論を受け付けない人がいる。数字で示される事実と現実を突き合わせてみる温暖化現象や目に見えない放射線の影響などをどう捉えるかが良い例だろう。いまだに写真を撮ると魂を抜かれるという類の恐怖心が科学的事実から目を背けさせるものだ。恐怖心や怒りもまた、視覚から入った情報を前頭葉で斟酌するより前に、脳幹が既成の枠の中で情報を処理しようとしてしまう要素だ。前頭葉まで情報が届き言語に置き換える所まで行けない。
その名を口に出してはいけない民族”が 史実を目の前に突きつけても認めようとしない理由は、小中華主義による自己肥大と現実に対する恐怖が原因であろう。彼等には見えないのだ。見えているが、脳が受け付けないのだ。あるいは運よく受け付けても前頭葉に客観化できる言語がないのだから、処理しようがないのだ。今後も同じだろう。
“その名を口に出してはいけない民族”は、隣人を未開人あるいは弟分あるいは盗人に過ぎないと思っている。未開人や弟分や盗人が文明人や兄や教導者に意見を述べるのが気に食わないと脳幹が判断し、前頭葉で考える事を拒否しているのだ。
私の思っていることが誤りであれば文明人同士としてそれなりの付き合いはできるだろう。
しかし、残念ながら、どうも彼の民族の言語能力不足は間違いなさそうだ。
予防法と治療法はある。それは学問の自由である。