彼らの社会で教条と現状とのズレを解消するために行われる監視、検閲、取締りが、どんなに厳しく形式上は上手くいこうとも、彼らの強迫観念自体は決して解消することはない。人間の自由を求める欲求は取締りをする彼ら自身の中にもあるのだから。
つまり、取り締まられる「現状」こそが、人間らしさや他者への共感の拠り所になっている部分であり、それらに根差した事象が地表に出ている部分であるからだ。取り締まる側の精神内面の葛藤の類似物であり、そのものなのだ。いわば、取り締まる側は「取り締まる行為」によって、自己の不安や葛藤を鏡に映すがごとく、強迫観念を強化していることになる。
教条が支配する社会で、監視、検閲、取締りが常にエスカレートし、ついには暴力による弾圧に変化するのは、この自己の内面の不安や葛藤を打ち消さんが為である。
そういうわけで、教条主義の集団は必ず過激化する。
上記は、下の続きとして読んでもらっても良い。