カルトの定義は様々だが、「独善」が最大の構成要素である。それが第三者の人生を狂わせば言い訳無用で「カルト」と認定してよいだろう。他者に対する優しさや寛容、共感を感じさせない思想や哲学などは人類に有害としか言いようがない。
そのような思想はカルトだ。
全ての「独尊」は相互に尊重し合える可能性があるが、全ての「独善」は常に相互に敵対的だと言える。
独尊は笑える。
独善は笑えない。
その差は天地ほど大きい。
その「独善」を創り出すのが「教条(ドグマ)」と呼ばれる独善的価値観である。
人類誕生以来様々な「教条(ドグマ)」が生まれ、その独善的価値観の害悪は歴史に血と怒りと悲しみを刻み付けて来た。
「独善」というものは常に自分と違うもの、異質なものに対して敵対的なものだ。それどころか、接する相手に少しでも自分と異質なものを何とか見つけようとすらする。その試みは自分と同じものを相手に植え付け、同化してしまうまで続けられるだろう。それが「独善」であり、同質性や異質性をチェックする道具が「教条(ドグマ)」と呼ばれる独善的価値観なのだ。
独善的価値観は人を必ず敵視し同化しようとする。だから全てのカルトは独善的だ。共産主義の本質もその独善性とカルト性にある。敵のいない共産主義者や共産国など絶対に存在しないのはそのせいである。
また、同化とは同調の強制であり、一体化の強制であり、集団や社会の全体化だ。同化と言う視点から見る時、独善的価値観とは全体主義の重要な一要素を指す。
教条(ドグマ)が支配する独善的価値偏重社会では、事実や真実を見極める事より、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業が優先されるのはそのためだ。 つまり、敵視と同化を強要しているのだ。敵と味方を峻別し、敵を殲滅し、味方を同化しようとしているのだ。
敵視と同化を強要する集団や社会。敵と味方を峻別し、敵を殲滅し、味方を同化しようとする集団や社会。その集団をカルト集団と言い、その社会をカルト社会という。教条(ドグマ)が支配する独善的価値偏重社会である。
習近平の「神格化」が行われると報道されている。
これも中共が教条(ドグマ)が支配する独善的価値偏重社会だからこそ可能なのだ。個人崇拝こそ、世界が自分たちの価値観に沿って動いていることを確認する作業そのものといえる。習近平を神聖視するかしないかということで、同質性や異質性をチェックしようと言うのだ。敵と味方を峻別し、敵を殲滅し、味方を同化しようとしているということだ。
いまチャイナで行われてようとしているのは、教条が支配する独善的価値偏重社会で同質性を確認するための「個人崇拝」と言う踏み絵なのだ。