人間は社会的動物ですが、やはり自然の産物です。だから進化の過程で得てきた体の成り立ちや脳の働き方が既にあり、それを変えるには進化という生物学的時間の限界があることを認めなければなりません。
厄介なのは「人は神(の子)のうつし身である」理性を働かせさえすれば「人間の情動全てがコントロールできる」。そのような妄想が人間社会に産まれてきてしまったことです。
社会を維持するために、どう振る舞うかを規制しなければならなくなった社会で、はみ出し行動が何であって、どういう罰を受け、何が推奨されるかを説くのが「宗教」「哲学」「法」「道徳」等であり、それらは社会維持のために必要ですが、それ以上のものが「宗教」「哲学」「法」「道徳」の名で押し付けられる状況が生まれてしまったのです。
最近のトピックスの一つが「ポリティカルコレクトネス」だと思います。「教条化したリベラリズム」です。つまり「理性で、理性の力によって、あらゆる情動と自然の支配が可能だ。いずれ可能になる」という考え方です。
そこには人の驕りが過剰に溢れています。
人類誕生から現代までの時間と地球という人類の住む広大な空間を無視するのは「人の驕り」です。「神仏を畏れぬ」という言葉が似合うかもしれません。
「自分たちの文明こそが」、あるいは「自分たちの文明だけが」地球上に現出したどの時代のどこの文明よりも開明的で、道徳的で、高尚で、知的な、人類の理想を実現できる価値観を持った至上の存在であると位置づけ、その理想社会を理想とし、その価値観を絶対的なものとして他者に強要しようとする。
つまり、結果として自分以外の他者が歴史と共に蓄積した経験を無価値か、自分たちの持っているものと比べて劣っているのだと無視する。
そのために身内(自分たちの尺度だけ)で取り決めたルールを、「ポリティカルコレクトネス」と名付け、他のどの優れた文明の尺度も認めることなく(HateやRacismの根本がそこにあると気付くこともなく)、また、進化という生物学的時間の限界を無視して人類(文明人)共通の価値観として押し付ける。
これが彼らの驕り(独善=教条に囚われた状態)だ。
そして、その宗教的文化観に基づく倫理的嫌悪感が Hate として、宗教的文化観に基づく異文化排斥が Racism という形になって、悲劇として何度も歴史上の教訓・語り草となって来たのです。まさに、彼ら(聖典の民)の持つ善と悪という二面的世界観こそが歴史上の悲劇を引き起こしてきた原因そのものなのです。
地震や台風、火山や津波という自然の驚異に数千年以上曝されてきた日本人であれば「自然には、まだまだ人知・人力の及ばぬ領域がある」「人は自然の一部であり支配者ではない」という考えが自然に身についている。自然や人を越えるものに対する畏敬を失わないのはそのためでしょう。
「人は自然を支配しコントロールできる」「人類は万物の長であり、人のために万物は存在する」というような発想は、自然に対する畏敬を失っていない日本人にしてみれば、人の驕り、教条化された思想に他ならないと思えるのです。