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Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.

中国とは文明が栄え仏の教えが説かれている国。中華人民共和国や中華民国のことではない。

【中国とは元々はインド北部地域の事】

 

正真正銘の中國から 後漢に伝わった「仏説 四十二章経」 に「中國」が出現する。

 

仏説四十二章経 は、インドから一度さらに西域に伝わった仏教が安息国(イラン)や大月氏経由で後漢に伝わって、元(もと)の梵語から漢訳された初期の仏教典のひとつ。
後漢の皇帝が夢の中で金色に輝く「金人」を見て西方に仏がいることを知り、大月氏国(アフガニスタン北部)に使者を派遣して『四十二章経』を写させたと言う伝説がある。

下記の画像は 迦葉摩騰, 竺法蘭 訳[他] 国立国会図書館デジタルコレクションから。

国立国会図書館デジタルコレクション - 仏説四十二章経

 

「六根既に具えるも、中國に生るること難し」とある。

 

六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹のことである。

つまり、六根とは 眼根(視覚)、 耳根(聴覚)、 鼻根(嗅覚)、 舌根(味覚)、 身根(触覚)、 意根(意識) のこと。


「それらが備わってい(六根清浄であっ)ても中国に生れることは難しい」の意味だ。

 

これはお釈迦様の言葉である。お釈迦様が中国と言っているのは、当然いまの中華人民共和国のことではない。釈迦が活躍したインド北部地方であり、仏教の教えが語り継がれるような文明地域のことだ。

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ちなみに、「六根既に具えるも、中國に生るること難し」の前後を併せて書き記してみる。

 

佛の言わく、人悪道を離れて、人たること難し、

既に男たることを得るも、六根完具すること難し、

六根既に具えるも、中國に生るること難し、

既に中國に生るるも、佛世に値ふこと難し、

既に佛世に値ふも道者に遭ふこと難し、

既に道に遭ふことを得るも、信心を興すこと難し、

既に信心を興すも、無修無體なること難し

 

となる*

この世に生まれ出て、人として生まれる事や文明が栄え仏の教えが説かれている国中國)に生まれる事や、仏がまさに現世に出現して教えを説いている世の中に生まれ出ても、その悟りをに導いてくれる人(仏、道者)に出会う事、そして悟りを得ることのむつかしさを説いているお経の一節である。

 

このような中國の意味を知ってしまうと、現在の中華人民共和国やかっての中華民国を中國と呼ぶのを差し控えたくなるのは当然だと思っている。

願わくは、ダライ・ラマ法王猊下提唱の Middle Way が成就し、東ユーラシア大陸の巨大国家に仏の教えが広まり、本物の中國が実現し人々が救われる日が来たらんことを!

 

なぜ、戦後日本で支那を「中国」と呼ぶのか?》については、下記のブログを読んでほしい。

チャイナはチャイナ、現在では「中国」も「統一中華」も周辺諸国侵略のためのプロパガンダとして使用されている。チベットウイグル満州等は断じてチャイナではない。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

支那を皇帝が自称していたことについては、こちらを参照下さい。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 ⋆『四十二章経』の原文(漢文)とその意味を知りたい方のために簡単な解説

佛言。      仏様は仰られた。

人離悪道。得為人難。三悪道(地獄、餓鬼、畜生)から離れて人間に生まれるのは難しい

既得為人。去女即男難。人間となっても、男として生まれるのが難しい

既得為男。六根完具難。男となっても体や精神の機能に何も欠点なし(六根清浄)で生まれるのが難しい

六根既具。生中国難六根揃ってても、中国(文明が栄え仏の教えが説かれている国)に生まれるのが難しい

既生中国。値佛世難。中国に生まれても、ちょうど佛が世に居る時生まれるのは難しい

既値佛世。遇道者難。佛が世に居る時期に生まれても、善知識(道者)と遭遇するのが難しい

既得遇道。興信心難。道に遭遇しても、これを信じる事が難しい

既興信心。発菩提心難。佛道を信じるようになっても、自ら菩提心を起こして修行に入るのが難しい

既発菩提心。無修無証難。菩提心を起こしても、証得するまで出来るのが難しい

 

南蛮寺興廃記 即心即仏の奥義

「南蛮寺興廃記」


天正五年(1577年)のことだとされる。 キリスト教側は南蛮寺の学僧フルコム(ルイス・フロイス?)、その他のバテレン、イルマン達である。


仏教側は南禅寺の印長老(268世、梅印元冲?)の他、浄華院の理道和尚、永観堂の深海律師などの学僧達が出席した。


諸宗の僧侶が居並ぶとフルコムを論師として南蛮寺の学徒達が席に出てきた。 南蛮寺代表フルコムは蜀紅錦の衣を着し、二尺余りの長剣を帯びて、僧侶に向って進んだ。僧侶の方から南禅寺の印長老がこれに対し法論が始まった。


最初にフルコムが印長老に質問した、「仏法とは何であるか?」


印長老は答えて言った、「即心即仏」。


フルコムはまた尋ねた、「即心即仏の奥義は何であるか?」。 


印長老は重ねて云った、「即心即仏」。


その時、フルコムは座を立って、長老に近づいて胸をつかんだ。


彼は遂に剣を抜いて胸に突きつけて迫った、「即心即仏の奥義とは何であるか?」。


しかし、印長老は平然と眼を閉じて黙然としていた。


その時、側にいた浄華院(京都、浄土宗の寺)の理道和尚(理同和尚?)は、長老が眼を閉じて黙然としていたのを見て、印長老の負けだと誤解した。


そこで自分が代わろうとした。


しかし、印長老の弟子達は少しも騒がず、まだ事の落着は見えない。もう少しお待ち下さいと理道和尚を引き止めた。


その時、印長老は忽ち眼を開けて「カアーッ!」と大声一喝した。


フルコムは眼をふさいでたまらず卒倒(気絶)してしまった。


この安土城での法論は「南蛮寺興廃記」に記述されている。


画像は

 

南蛮寺興廃記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

【南蛮寺興廃記】

 

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永続的識別子 info:ndljp/pid/2541597 タイトル 南蛮寺興廃記 著者 雪窓, 宗崔 出版年月日 慶応4(1868)序 請求記号 198.21-N622 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000003283624



尖閣諸島の領土・領空・領海と排他的経済水域に関する基本の「き」

尖閣諸島の領土・領空・領海と排他的経済水域に関する基本の「き」】

2010年9月7日以降、機会あるごとにあちらこちらで主張してきたことの要旨をまとめてみた。

日本領土である尖閣諸島に対する中共の主権侵害行為は実力をもって排除しなければならない!


主張の要旨:

1.尖閣諸島の領有権及び主権は日本に属する。

2.尖閣諸島の領有権及び主権の帰属に関して日中間に未解決の問題はない。

3.現時点で解決されるべき問題とは、日本領土である尖閣諸島に対する中共の主権侵害行為である。

  ①歴史や国際法を無視した主張、

  ②中共籍船舶や飛行機による領海や領空への侵犯、

  ③排他的経済水域での違法行為等

4.このような中共の主権侵害行為は「時間をかけ」対話で解決されるべきものではなく、直ちに中止するよう申し渡すべき性格の問題である。

5.主権侵害行為は実力をもって排除する。

6.中共が、上記に異存があるならば、中共は自ら国際司法の場に提訴する等の平和的解決の道を採るべきであって、徒に(3項で記したような)威圧を以って「尖閣史 五百年の歴史変更」を試みるべきではない。

                              ー以上ー

 

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第0列島線 「籌海圖編」上半分の島嶼は全て明の海防能力の外側(海防管轄外)だったことを表す

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画像は、東洋文庫 第4冊57頁 倭寇を偲ぶ烽火台(福州) 1927年4月撮影

 

2013年3月13日のFBへの投稿

いい しげる - いしゐのぞむ氏 尖閣研究報告... | Facebook

いしゐのぞむ氏 尖閣研究報告
籌海圖編(1562年)の沿海山渉圖(四書全書、台湾商務印書館)

長崎純心大学共同研究報告書「言葉と人間形成」の比較文化研究 

平成25年3月長崎純心大学較文化研究所 尖閣釣魚列島雑説七篇 
いしゐのぞむ氏(比較文化学科准教授)の報告書より複写

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海防書「籌海圖編(ちゅうかいずへん)」内「沿海山沙圖(えんかい さんさず)」

その地図中の赤い点線部は明の領土の境界線赤丸部分は明の国外にある軍の駐屯地である。様々な島の名前が書き込まれているが、明の領土は海岸線まで。一部の島嶼こそ軍の駐屯地であったが、その他は明の領外であり、明の海軍の最大の敵である倭寇の根城と言ってよい。図に見える魚釣島大正島久場島と言う尖閣諸島は明國外の倭寇が攻めてくる経路として描かれている

 

 上半分の島嶼には駐屯地はない

 

     ⇅ 対照的

 

下半分には、「巡検」「水寨(とりで)」「烽堠(烽火を上げる物見台)」「」「」「」などの駐屯地が列記される

 

また、明朝の領土は海岸までと「大明一統志」などの地誌に明記されているので、上半分の島嶼は全て明朝の領土外であり、海防能力の外側(海防管轄外)にあることを示している。

 

 

第一列島線を脅かすことに余念のないチャイナだが、彼らが歴史戦を挑めば第0列島線の歴史的文化的意味を問わざるを得なくなる。


古来、東ユーラシアにできた王朝にとって「海」は「界」であった。
陸上勢力である彼らは長く「洋」を知らず、陸の果てをもって「界」とした。「海」がそれである。

したがって、歴代王朝は例外なく海岸線を国境とし、沿岸から数十キロ離れた島嶼ですら権力下に入れることは稀であった。

香港やマカオ厦門といった沿岸部においては、常に倭寇勢力と接し、大河の沿岸部は大陸の奥深くまで度々侵略支配を許していた。近代においては西洋列強が倭寇に代わったに過ぎない。
歴史上、東ユーラシア沿岸部は常に外部勢力との力の均衡点であったと言える。
そうであってみれば、江南人たちが歴史・文化をチャイナと異にするのは当然であり、彼らが「中国の一部ではない」と主張する充分な根拠となりえるのだ。

現在、香港やマカオ、あるいは越人の血を引くと考えるカントニアの概念を持った若者たちが独立運動を起こすのも至極当然のことであると言える。

 

参考図書

尖閣反駁マニュアル百題』いしゐのぞむ著 集広舎

第三部 史料百題指南 十四 「福建沿岸圖の下半分に海防陣 上のすみの尖閣に海防は及ぶか」 196頁参照

南鮮人の確証バイアス回路 一旦信じ込んだことを肯定する事象はすべて受け入れ、それに反することは考えても見ず、全く受け入れない

www.sankei.com

 

確証バイアスの典型例だ。確証バイアスが南鮮人の病として特徴的だと南鮮のマスコミがちょっと前に紹介していた。


記事に出てくる南鮮の学生は、慰安婦問題を論じる上での基本的な知識が無いにも拘らず、一旦信じ込んだことを肯定するための事象はすべて受け入れ、それに反することは全く受け入れない。
事実を見ても聞いても正しく思考する回路が働かない。完全に壊れた状態だ。以前にこの状態に陥っている南鮮人たちを、私は「事実を見ても現象を説明できる言語と思考回路を持っていない人々」と表現した。まさにそれだ。

 


ここでいう一旦信じたこととは、「日本は悪者である」。「老衰したおばあさんは正しいことを言っている」である。その固定観念の枠を出ることは甚だ困難だろう。情緒、特に脳幹に訴える怒りや恨みの感情と結びついた固定観念は、理性的な思考を拒否する朱子学の影響下に長くあった半島の人々は、それを好んで「恨」に化してしまう。

 

どういうことかというと、こう言うことであると考える。

情緒的「正義」が満足されることが「善」。自己肯定と同義。

情緒的「正義」が否定されることが「悪」。自己否定と同義。

社会的弱者が強者によって情緒的「正義」が否定されつつ生活せざるを得ない場ではあるが、そこになんとか例外的な自己肯定の場を持ち込もうと本能的な努力をする。それは精神的努力だ。だから、そこに「恨」が生まれ、「火病」が生まれる。

「社会矛盾で恒常的に抑えられた自己肯定欲求が、「反日」によって情緒的「正義」を満足させたくなる」と言い換えても良い。

そのような思考や行動を無理やりにでも解釈しようとすれば、そうなるのだろう。

そんな場合には、他者から見たら馬鹿げたことで信じられないのだが、一旦情緒で善や悪と判断して受け入れてしまったものを「そうではなかった」と修正できないらしいのだ。

 

付和雷同して大きな声で叫べば、それが「正義」になるというお国柄である。

先に述べた事が当たっていれば、民族的集団ヒステリーということになる。

日本と日本人に何でも原因を押し付けさえすれば(反日という場を与えれば)、後は民族に備え付けられた確証バイアス回路がその国を動かしてくれるという訳だ。


チャイナと北の赤色工作員にとって、こんなに操りやすい国と民族はないだろう。

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第0列島線が歴代チャイナ政権の海防最前線だった(明の領域は海岸線まで)

古来、東ユーラシアにできた王朝にとって「海」は「界」であった。だからこそ、歴代王朝は例外なく海岸線を国境とし、沿岸から数十キロ離れた島嶼ですらその権力下に入れることは稀であった。

「香港は中国の一部ではない」と主張する香港独立派には立派な歴史的文化圏的根拠がある。

 

下記は、長崎純心大准教授石井望氏による「歐州史料 尖閣獺祭録 第八十二囘」だ。
明の領域は海岸線である。第0列島線こそが歴代チャイナ政権の海防最前線であった。

1595年編集 謝杰(しゃけつ)による「虔臺倭纂(けんだいわさん)」を見ると
東湧横に注記「此海外要地倭船多由此過」とある。
「これ海外の要地なり、倭船は多くここより過ぐ」と読み下す。


東湧とは現在の馬祖列島。馬祖列島の現在の位置を下の方に示しておく。

海外とは、境界の外だ。

Essay / Senkaku 「海」は「界」であった。 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

その東湧のすぐ横に注記があり、チャイナの界の外で重要な場所と書いてある。意味は、国境である海岸線を守るうえで重要ということである。つまり、これ此海外要地倭船多由此過明の海防の最前線が馬祖列島であることを示す文言だ。

 

画像は 八重山日報 平成28年11月3日 版 長崎純心大准教授石井望氏

による「鷗州史料 尖閣獺祭録 第八十二囘」から

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今の地図で馬祖(東湧)と尖閣列島魚釣島)の位置を比べてみよう。

陸地からほど遠くない海域が、明朝の海防最前線であったことがお分かりいただける。

赤字で書いた此海外要地倭船多由此過「此」の上の小さな白い点が東湧(現在の東引島)だ。馬祖と書いた字の内側を倭船が多数通行していたと明朝の高級官吏が記録に書き示しているのだ。

 

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東ユーラシア沿岸部は、中華を称する陸上勢力と日本や西洋の海上勢力との力の均衡点であったと言える。

第0列島線 (The Zero Island Chain)こそが、歴史的・文化的国境線だと言えるのだ。

そうであってみれば、第0列島線上にある香港やマカオが歴史・文化をチャイナと異にしている現実は「中国の一部ではない」と主張する充分な根拠となり得る。

第一列島線 を脅かす主張を憚らないチャイナ政府が「歴史戦」を日本に挑むなら、第0列島線もその戦場になると覚悟すべきだ。

祖国(国家への帰属意識)を持たない難民と祖国を持つチベット亡命政権

歴史や文化、慣習の土台に乗った秩序。普段は意識することの無い空気のように、家族、友人、地域を形作っている秩序。それこそが国家を形作り、それに参画している「国民」という意識を産む母体である。国家に対する帰属意識がそれだ。


国民国家には国家の柱になるコアがあり、歴史と文化がある。それが象徴されるのは、言語であったり、理念であったりするが、多くは国旗や国歌にそれが良く表されている。およそ国民国家の意識が成立している人々で構成される集団なら、コアになる元首や理想を表した国旗・国家がある。

 

例えばチベットも不当に中共に支配されてはいるが、立派な元首と国旗がある事は知られているだろう。彼らは明確に国家に対する参画・帰属意識がある。

 それどころか私に言わせれば、チベット亡命政府こそが立派な「国民国家」だ。

国土こそ不当に中共に支配されて奪われていても、核になる元首と国旗、なによりも国家に帰属意識を持つ「国民」がいる。亡命政府とは言えども、立派な国民国家が成り立つということの証明だ。


今日の難民社会を困難にしているのは、「難民たちに帰属意識を持たせる『祖国』がない」ということであろう。

現在行われている難民支援の主流は、衣食住や医療という生命維持を中心とする人道支援が中心である。これはこれで、最低限必要な支援として続けるべきだが、戦場や迫害から逃れられる周辺地域からさらに先進諸国へ避難民や移住民として移動をする人々に対する対策が必要だ。

とはいえ、その最大の問題は、国家に対する帰属意識を持っていない人々が多いということであり、困ったことに大多数がそうだという現実にある。

彼らは、自分たちが部族や宗教や利益を与えてくれているグループにそれぞれ帰属していると考えている。「〇〇部族」「○○派XX教徒」「政権支持派」「反政権派」等だ。

 

東ユーラシアには、これから大量に難民を生み出すかもしれない共産国家がいくつかある。そこにも国家に参画している、帰属していると心底思っている国民意識を持った人々は少ない。いるのは、「〇〇人民」、「XX族」や「党幹部」「都市住民」「農民」等だ。運が良ければ自ら考える「民衆」が誕生するが、党や軍に所属している人々にすら、殆ど国家に対する帰属意識などない。国家体制を拠り所に寄生して利をむさぼる人々であるか、彼らに寄生されて利を稼ぎ出す人々の差があるだけだ。


これらの国の人々は、主権者として国家に帰属しているという意識がないため、祖国を簡単に捨てるファシズムの支配する国々では特にそうだ。

 

彼らに、紛争が終わった、あるいは、危険が去ったからと言って、「『祖国』へ帰れ」と言ったところで、彼らが脱出してきた土地は、彼らにとって、彼らの『祖国』とは言い難い。政治的・精神的に帰属する国がないからだ。移住先の国が放置すれば、その国の社会保険制度、教育、職に寄生し、その国の歴史文化的価値観に溶け込めず、濁らせるだけの厄介者になりかねない。

それこそが今日の難民問題の本質だと思う。

国家への帰属意識なき難民には「教育」によって国造りを教え込む以外に方法はないということだ。国造り以上の愛国活動はなく、国への帰属意識を育てる土壌もまた人の心にしかない。難民対策の核心はそこにある。

 

その際、難民自身が主体となって行う国造り教育が望ましい事は言うまでもないだろう。

 

下記の章に書いた(1)~(3)の活動が参考になると思っている。

そのなかで「祖国」を作ることが難民対策だ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

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半島から、職を求め戦火を避けて密入国した人々も同じ問題を抱えているだろうがここでは取り上げない。

天寿国繍帳銘文から知る 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘文は、太子、太子の母、膳夫人の「天寿国」における称号を記した

その光背の銘文に推古天皇の名が記載されていない事をもって、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説には承服しがたい。

 

奈良県斑鳩町中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品、天寿国繍帳銘文に推古天皇の名があり、天寿国繍帳が推古天皇によって作られたと明白なら、ほぼ同時代の法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」とあるのは聖徳太子であると考えるのが至当だ。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記すことが可能になったのだ。そう解釈する。

つまり、

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における称号を記した。」それぞれ、法王、太后、王后である

と考える。

生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像は天寿国への「太子の(法王としての)往生の様子」という意である。推古天皇の名が記載されていないのは、天皇がこの世の天皇であり天寿国にまだ往生していないからである。記しようがないではないか。その(推古天皇)名を出さないことで、はじめて釈迦三尊像の光背銘に「天寿国」における「法王」の称号を記せるのだ。

 

天寿国繍帳銘文
Wikipediaより

天寿国繍帳 - Wikipedia


銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている。

以下に原文読み下しの一部を引用する。

辛巳十二  月廿一癸  酉日入母  孔部間人
歳(ほし)辛巳(かのと・み)にありし十二月二十一(日)癸酉(みずのと・とり)の日のくれに母の孔部間人
 王崩明年  二月廿二  日甲戌夜  半太子崩  于時多至
王(あなほべのはしひとのみこ)崩(かむざ)りましぬ。明くる年の二月二十二日甲戌(きのえ・いぬ)の夜半に太子崩りましき。時にたち
 波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天  皇前曰敬  之雖恐懐
ばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う
 心難止使  我大皇與  母王如期  從遊痛酷  无比我
心止(や)みがたし。わが大皇(おおきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎ)りしが如く從遊(じゅゆ)せしめたまう。痛く酷(から)きこと比ぶる無し。わが大
 所告世  間虚假唯  仏是真玩  味其法謂  我大王應
王の告げたまいしく『世間は虚假(こけ)にして、ただ仏のみこれ真なり』と。その法(のり)を玩味(あじわ)うに、わが大王は
 生於天壽  國之中而  彼國之形  眼所叵看  悕因圖像
天寿國の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。而(しか)るに彼の國の形は眼に看(み)叵(かた)き所なり。悕(ねが)わくは図像によりて
 欲觀大王  往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子
大王が往生したまう状(かたち)を觀(み)んと欲(おも)う」と。天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。
 所啓誠以  爲然勅諸  采女等造  繍帷二張  畫者東漢
啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」と。勅して諸の釆女(うねめ)らに繍帳二張を造らしむ。畫(えが)ける者は東漢(やまとのあや)の
 末賢高麗  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻

末賢(めけ)、高麗(こま)の加西溢(かせい)、また漢(あや)の奴加己利(ぬかこり)。令者(つかさひと)は椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたのくま)なり。

+++++便宜のためWikipediaから引用の文意+++++
辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。大王太子)は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって大王太子)の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳(ぬいもののかたびらふたはり)を作らせた。画者(ゑがけるもの、図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(つかさどれるもの、制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはたくま)である。

+++++引用終わり+++++

 

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この章は、下記のブログ記載内容につき質問があり、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の銘文に聖徳太子はいなかったとする説についての私見をコメント欄に記載したが、それを書き改めたものである。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではない。
生きていれば天皇になったであろう「その人」に対する追悼の意としての太子等身の釈迦像なのであるから、その釈迦像天寿国への「(大王と記されている)太子の往生の様子」という意である。

その当時の人々が、仏教の保護者として「その人」の往生を描くことの意味。

それこそ、「その人」の存在が「聖徳太子厩戸王)」であって、「厩戸王聖徳太子)」ではないことを示している。

 

救世観音大菩薩聖徳皇 親鸞聖人が枕元に見たのは「聖徳太子」であって、「厩戸王」ではなかった。

【「聖徳太子厩戸王)」であって「厩戸王聖徳太子)」ではない】


親鸞聖人が枕元に見たのは「聖徳太子」であって、厩戸王ではなかった。

聖徳太子とは、後世に語り継がれてきたものも併せて聖徳太子です。厩戸王も当時のネストリウス派キリスト教の影響を受けた名前で否定する気はありませんが、現在的価値を持つ言葉ではありません。「その言葉で太子を言い表すことが出来ない」という意味です。


聖徳太子の在りし日の仏教への貢献が、後の世の救世観音大菩薩聖徳皇に繋がっていくことは、誰もが認めている事なのです。ですから、厩戸王の呼称がまかり通ると、その歴史的価値、日本の仏教の礎を築き、菩薩として崇拝を受けるに至るまでの尊敬の源、源泉を見失ってしまうことになりかねません。それは一種の文化破壊、歴史的抹殺ですらあります。


括弧の中に入るべき言葉は(厩戸王)であって、「聖徳太子」ではありません。

 

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厩戸王ではなく聖徳太子こそ歴史教科書に相応しい表記

学習指導要領改定案で聖徳太子の呼称を「厩戸王」に変えた問題について、文部科学省パブリック・コメントを届けた。

 

聖徳太子は、推古天皇摂政として蘇我馬子(大臣=おおおみ)とともに支えた実在の人物だ。
法隆寺釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框の墨書「辛巳年八月九月」が621年を意味し、当時「上宮法皇」は仏教保護者に相応しい称号といえる。

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画像は下記のWikipediaから、赤線はその画像に加筆した。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 - Wikipedia

 

法興元丗一年 歳次辛巳十二月、鬼
太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

— 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』

 

趣旨:上記のWikipediaから引用

推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」

誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土・悟りに至ることを祈念している。光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。

 

「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」の「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)であり、歳次でいう辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。また、聖徳太子の生前の祈願(上宮法皇枕病弗悆)であると記載されている事実からも、翌年の2月22日に太子が亡くなったとき「上宮法皇」として尊敬されていたことは明白だろう。

 

上記を理由として、文科省パブリックコメント:意見募集中案件に意見を述べて置いた。

+++++提出意見欄記載内容+++++

厩戸王ではなく聖徳太子こそ歴史教科書に相応しい表記】

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に仏教保護者としての称号「上宮法皇」と記載されることこそ、「聖徳」と贈名されるに相応しい事実であろうと思います。

621年当時「上宮法皇」とあがめられている人物が「厩戸王」という名で歴史教科書に登場するのでは、仏教保護者として果たされた業績にそぐいません。

 

 

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当時、仏教保護者として「上宮法皇」と言う称号を得ていた人物を「厩戸王(うまやどのおう)」と呼称することは、聖徳太子が仏教の布教に果たした役割を伝えきれないと感じる。

この一事をとっても、日本史上もっとも大切な人物として長年位置づけられてきた聖徳太子のその呼称を否定し、「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばせるという方針は、承服しがたいというのが私の思いである。

 

文科省への意見は下記から提出できる。 意見・情報受付締切日は 2017年03月15日まで

search.e-gov.go.jp

 

2017年2月23日 「光背の銘文には、太子、太子の母、膳夫人「天寿国」における地位を記したものであろう。」の一文を付け加えた。

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