kaiunmanzoku's bold audible sighs

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Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.

平成30(2018)年1月16日の戯言 「恨」の世界とは

「恨」の世界とは:

 

深層心理には、同族殺しの父と性奴隷の母から生まれたとい原罪的な罪悪感があり、自己の外界に対しては被害妄想とマゾヒズム、自己の内界に対しては無意識のサディズムとして表現される。

 

特に、恨みの感情と結びついた固定観念は理性的な思考を拒否するという特徴がある。つまり、恨みだけではなく観念化した事実認定そのものまでが、いつまでも一カ所にとどまり動かない様を示す。甚だしきは、見聞きした事実を自己の内に在る観念や信条に無理やり当て嵌め、事実の方を歪曲し、ひたすら自己の観念や信条を正当化するために用いようとする(参照:確証バイアス)。

 

典型例としては、情緒的「正義」が満足されることが「善」であり、自己肯定と同義であるのに対し、 情緒的「正義」が否定されることが「悪」とされ、自己否定と同義となる。

 

処方箋: 原罪意識からの解放。#AcademicFreedomNowInKorea

 

上記は、平成30(2018)年1月16日17:00にFacebookに投稿したものを書き直した。

いい しげる - 「恨」の世界とは:... | Facebook

 

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政治に無関心な者は平和を愛する者ではなく、意味を持たない者だ。

我々は美を愛する。だが、節度を持ってだ。

我々は知を尊ぶ。しかし、自惚れることはない。

我々は富を追い求める。だがこれも、富でなしうることを実現するために持つのであり、愚かに自慢するためではない。

アテネでは、貧しいことは恥ではない。しかし、貧しさから抜け出そうと努めなければ恥とされる。


(中略)


ここアテネでは、政治に無関心な市民は平和を愛する者とはみなされず、市民として意味を持たない者とされる。


ペリクレス

ペリクレス(Περικλῆς、紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家

 

なお、この演説にはいろいろ翻訳があるが、各国語に訳されたものを見て上記のように訳し直した。

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中共はなぜ日本を敵視し続けるのか?

中共はなぜ日本を敵視し続けるのか


共産主義に限らず、あらゆる教条主義には「敵」が必要だ。なぜなら教条主義は「独善」が前提であり、「敵」なしに「独善」は存在しえないからだ。

 

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

教条主義:独善という世界観 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

ある価値観、ある主張が至上の存在であると位置づけ、それを実現しようとする場合、その価値観、その主張を正当化するための儀式、思考法、生活様式、ルールを社会に認知させ、実施させるため、それらをグループや社会の構成員に道徳的に価値あることと思わせ、義務付け、習慣化させ、法的拘束力を与えようとする。

 

この行為を「独善」といい。その価値観や主張を「教条」という。

 

その結果として誕生する世界(グループ・社会の構成員の脳内世界の現出した世の中)では、「独善」に沿わない言動を不正義、悪、差別されたもの、闇、不幸、汚れたもの、その他もろもろの否定的言語でレッテル張りすることとなる。

その世界観は「敵・味方」や「支配・被支配」「搾取・被搾取」「富・貧困」「純血・穢れた血」「善・悪」「白・色」「光・闇」という徹底した二面論的価値が支配する。

 

その否定的言語でレッテル張りされた「敵」があってこそ、「独善」が力を持ち得る。

 

つまり、一旦、教条が世の中(脳内)を支配し始めると、その世界ではいかに自分たちの世界観・価値観が優れていて、人のために役立ち、グループや社会の利益になっているかを随時確認するようになる。いわば、構成員やその指導者、奉じる教条の正統性を自己肯定する儀式が行われるというわけだ。それを自己正当性、自己の存在意義の確認作業と呼ぶことにする。

その確認作業は自己の正当化のために行われるため、その集団や社会に必須のものとして強迫観念化する。

 

 そのやり方だが、困ったことに、その自己正当性、自己の存在意義の確認のために否定的言語でレッテル張りされた「敵」を用いるのがどの教条社会でも主流のようだ。

 

いかに自分たちの世界観・価値観が優れていて、人のために役立ち、グループや社会の利益になっているかを、否定的言語でレッテル張りされた「敵」を用いて、その敵の悪行を取り上げ宣伝し、弾劾し否定することで、自己正当性、自己の存在意義の確認を行う。

 

2.共産主義は教条であり、必然的に「独善」を教義とするカルトに陥ること。

ユーラシア大陸で、今まで行ってきた卑劣な行為やこれから行う侵略まがいの脅迫を日本軍国主義の侵略行為を撃退し勝利を収めたという一事で、共産党政権とその政権が行ってきたことを正当化するという図式は、中共に関する限りいちいち説明するまでもないだろう。チベット東トルキスタンという独立国家を侵略不法占拠し、東シナ海南シナ海での無法な行いは、国際社会の非難の的である。

 

その中共をはじめとする世界の共産主義政党は「平等や公正さを実現」するための「労働者・農民の指導者」である。例外なくそのように標榜している。共産党は、その立派な理想を実現するため「独裁制」を用いている。

ところが、その理想の「平等や公正さを実現」するための「労働者・農民の指導者」である共産党員は、地球上に存在したどのような理想国家においても「独裁制」というヒエラルキーのトップに君臨する共産党委員長という「個人の権力への一奉仕者」に成り下がってしまう。例外などない。将来においても同じだろう。共産主義が科学などではなく「教条」に過ぎないからだ。

共産党員は、権力のトップに成り上がれる可能性のあるほんの一部を除いて、その他大勢が自己の地位や生活を保持するために共産主義の一層の教条化を進める「カルト信者」と化してしまうのだ。

 

自己正当性の確認作業は強迫観念化する上記で述べたが、共産主義的独裁のようなヒエラルキーの社会構造では強迫観念化は、トップに君臨する個人への忠誠合戦となり、そのヒエラルキー集団や社会の底辺を支配するまで続けられ、さらに教条を強化する。

血の粛清が行われるなら、恐怖がその強迫観念化の速度と硬度と脆弱さを更に一段と高めていくことになる。

つまり、教条主義者の集団や社会は過激化する。そして、ヒエラルキー集団では必ず必要以上に過激化する。独善である以上、過激化は(独)善性を高めるだけなのだから。共産主義が科学性を確保したいなら独善性を排除しなければならない。つまり共産主義ではなくなる。

 

否定的言語でレッテル張りされた「敵」に対する敵視も同様に過激化する。

中共内で自己権力の正当化が必要であればあるほど、重要であればあるほど、必要な時が非常時であればあるほど否定的言語でレッテル張りされた「敵」に対する敵視は過激化するのは避けられない

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共産主義には常に「敵」が必要であり、非常時には絶対必要なのだ

昆陽神社 京成幕張駅そば「昆陽先生甘藷試作之地」

平成30(2018)年1月3日に散歩を兼ねて幕張から検見川神社まで初詣した。

その時の覚えを兼ねて土地の歴史を記しておく。

 

京成千葉線京成幕張駅のすぐ近くに、金網のフェンスに囲まれた一角があり、「昆陽先生甘藷試作之地」と刻まれた記念碑が建っている。

下の画像は、スマホで撮影した記念碑だが、フェンス越しで距離が10mくらいあり、文字を判読できない。背景が民家(アパート)のため見所としても興を削がれる。

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フェンスのすぐそばにある説明

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26166389_1550740345042247_2249461250100213139_n.jpg?oh=f0c65f70e877cef268916266f27ddd51&oe=5AED4FAB

 

千葉県指定史跡と書いてある。

青木昆陽は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の時代に南町奉行大岡忠相に取り立てられた。

 

徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を青木昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。


画像の説明書きにある通り、この馬加村のみで栽培に成功した。

「種芋17個から2石7斗6升の収穫を得ることができた」

青木昆陽甘薯試作地/千葉県 (参考)


この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明、天保と続く大飢饉の時にもサツマイモによって多くの人が救われ、昆陽神社も建てられた。昆陽神社は火の神の秋葉神社の地に隣接し、青木昆陽は、「芋神様」として今も土地の人々から尊敬を集めている。

やがて、サツマイモ栽培は全国へと普及していく。

天保年間にはサツマイモから飴も近隣の検見川で製造されたという。
また、茨城県名産の干し芋も昆陽の成功なしには存在しない。

 

 

青木昆陽ゆかりの昆陽神社
京成幕張駅すぐそばという便利な所だが、正月三が日にも拘らず人影が殆どなかった。

鳥居に昆陽神社と書いてある正面の拝殿は実は秋葉神社、その右にあるのが昆陽神社。

青木昆陽昆陽神社では「芋神さま」として祀られている。

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26196034_1550739958375619_7242601304346322730_n.jpg?oh=5908820d1486f65efafd7b5f2f75b538&oe=5AFA7DEA

 

甘藷先生は、日本を飢饉から救った大恩人です。江戸時代の飢饉だけではなく、昆陽が関東でサツマイモの栽培に成功していなければ、先の大戦時とそれに続く戦後の食糧難時に日本人の餓死者は膨大な数に上っていたことでしょう。

 

青木昆陽墓所は国指定史跡となっており、東京目黒の瀧泉寺目黒不動尊墓地)にある。目黒不動尊では、毎年10月28日に「甘藷祭り」が行われるとのことだ。

千葉県の奮起を求めたい。

 

 

付け足し:京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。

画像は歩行者用の「幕張昆陽地下道

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馬加 康胤(まくわり やすたね)の首塚 二代目年寄名跡 宮城野馬五郎の供養塔

平成30(2018)年1月3日に散歩を兼ねて幕張から検見川神社まで初詣した。

その時の覚えを兼ねて土地の歴史を記しておく。

 

千葉市花見川区幕張町にある大須賀山という名の丘の説明

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26166094_1550590035057278_7257164449051798289_n.jpg?oh=6d42549f38dd4a4d293cfdba40c71135&oe=5AED96EC

 

 

馬加 康胤(まくわり やすたね)の首塚と称される塚に立つ供養塔。

馬加 康胤(まくわり やすたね)は、室町時代前期の武将。千葉氏19代千葉 康胤(ちば やすたね)とも呼ばれる。第14代当主・千葉満胤の次男。居は馬加村と呼ばれた幕張付近にあったそうだ。康胤の最期については、上総八幡(現在の千葉県市原市八幡町)の村田川で常縁に討たれたとされるが不詳。Wikipediaより

従って、この首塚は「馬加康胤首塚称される」塚という事になっている。

 立派な五輪塔で大事にされているようだ。

「塚」を上り下りする際は落ち葉等で滑り落ちないように注意する必要がある。

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26166897_1550590851723863_3242694386728550862_n.jpg?oh=a7bfc44873dd8861abe50d7ff9275584&

 

享徳の乱において、鎌倉公方足利成氏関東管領上杉氏が対立。その結果、京都の室町幕府から支持された上杉氏の追討を受けた足利成氏は鎌倉を追われて下総古河城に入り、古河公方と称した。そのため、下総守護であった千葉氏の元には、幕府と古河公方足利成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。甥の千葉氏当主千葉胤直は幕府の依頼を受けて足利成氏討伐に乗り出すが、馬加(千葉)康胤足利成氏支援を主張して対立する。これに筆頭重臣の地位を巡る氏と円城寺氏の対立が絡んで家中は2分される。


享徳4年(1455年)、原胤房千葉胤直胤宣父子を亥鼻城に攻め、千田庄(現在の千葉県香取郡多古町付近)へ追いやった。その後、出家していた馬加康胤もこれに合流。
1456年( 享徳5年/康正2年)8月、馬加康胤原胤房の軍により千田庄の多古城・島城にたてこもる千葉胤直父子や円城寺尚任、援軍にかけつけた大掾頼幹妙充満幹の次男又は甥)を攻め千葉嫡流家を滅ぼた。

 

この報を受けた京都の将軍足利義政馬加康胤追討の御教書を発し、千葉一族で当時、美濃国郡上郡を本拠にしていた東常縁(とうのつねより)を下総に下らせた。

東常縁下総国のほかの千葉一族を含む上杉方=反馬加・反原勢力の力を得て馬加城を攻撃。馬加康胤はたまらず馬加城から逃れたが、同年11月1日、上総八幡(市原市八幡)にいるところを急襲され(八幡合戦)、ついに村田川のほとりの林の中で自刃した。享年59歳。

康胤等今は遁れぬ所と取て返し奮戦の後遂に甲を脱乍立咽を貫きて死す、子胤持又父と共に討死す、康正二年丙子十一月朔なりき、康胤の首は村田川の岸に獄門に懸け後京都に送るといふ。」(『千葉県市原郡誌』)

 

 

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26219952_1550590795057202_4100744399294890551_n.jpg?oh=5fe51c650f8b98a42a3b243c1392699e&oe=5AC127A5

 

康胤の首は京都東寺四塚に晒されたともいうが、密かに家臣により盗み出され、この大須賀山に埋められたともいう。康胤の家臣らは、名字官名を捨て、郷侍あるいは百姓となり、付近の村々、海岸近くに移り住み、これを「馬加郷新間宿」と名づけた。1463年(寛正4年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起き、念仏堂を建立。1468年(応仁2年)、大須賀山で「屋形[馬加康胤]の家臣共討死せし人の霊祭供養」を執行したという(以上、「素加天王社」)。

 

馬加 康胤(まくわり やすたね)の供養塔の五輪の塔の台座部分 寛永年間(江戸時代)の建立。寛永10年は西暦1633年。

徳川家光の治世。第1次鎖国令(奉書船以外の渡航禁止・海外に5年以上居留する日本人の帰国禁止)。

ガリレオ・ガリレイが2度目の宗教裁判で終身刑を言い渡される(後に軟禁に減刑)。

 

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26165832_1550590725057209_3379292445307043694_n.jpg?oh=aa15bec91e506864f7c5a33e83994333&oe=5AC2B1BC

 

供養塔である五輪塔の横にあった石造物ふたつ。

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26165570_1550590898390525_397305423901003161_n.jpg?oh=dbe40b0b3bc7bf428cd2355314c9781b&oe=5AB5EAAE

 

文化文政年間の力士、荒馬紋蔵の供養ー 場所: 千葉市花見川区幕張町

「馬加康胤の首塚と称される」塚と同じ大須賀山にある。

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26169177_1550590768390538_4940027771826737574_n.jpg?oh=aeb8ad1629f4b61ec0c6dc4cfb21a101&oe=5AEF0C90

 

上記荒馬紋蔵の説明書き看板
この辺は「相葉」の苗字が多い。ジャニーズ嵐の相葉君のおうちも徒歩圏内だ。

ー 場所: 千葉市花見川区幕張町

 

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https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/26231501_1550590791723869_6232468450979261819_n.jpg?oh=ef4e377fde98416fd4a36b738d1ab397&oe=5ABD4962

 

 

角界における宮城野 (年寄名跡)は、 初代宮城野錦之助 (最高位関脇)に始まり、荒馬紋蔵宮城野馬五郎を襲名し部屋持ち親方となったのを二代目としているWikipediaより)

しかし、力士の四股名としての宮城野四股名は宮城野里右エ門(最高位関脇)、宮城野錦之助上記と同一人:最高位関脇)、宮城野丈助(江戸ヶ浦勝右エ門:最高位関脇)に続き、宮城野馬五郎で四代目となるらしい。二枚鑑札(にまいかんさつ)と呼ばれる現役の力士であって年寄を兼務していたとのこと。

 

また、年寄名跡宮城野を名乗り部屋持ちとなったのは宮城野馬五郎が初めてであるので、現在に続く宮城野部屋宮城野馬五郎こと荒馬紋蔵に始まったと言える。

1702 元禄十五年 琉球国八重山島 / 沖縄は日本

国立公文書館デジタルアーカイブより
琉球国八重山島(元禄)」国の重要文化財
元禄十五(1702)年 のご紹介。

 

 

江戸幕府が各藩に命令して提出させた元禄国絵図という全国を国ごとに描いた地図の一部です。この地図は、幕府が薩摩藩に命令して薩摩藩が描いて幕府に提出したものです。

幕府の統治は遠く八重山諸島まで行き届いていたという証拠です。
元禄15年と言うと赤穂浪士の討ち入りが有名です。

薩摩藩は第三代藩主 島津綱貴(つなたか)従四位上左近衛中将薩摩守 の時代でした。

 

国立公文書館デジタルアーカイブ

www.digital.archives.go.jp

 

当該サイトからコピペ

琉球国八重山島(元禄)
(りゅうきゅうこくやえやまとう(げんろく))

江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等が作成されました。このうち元禄国絵図は、元禄9年(1696)その作成が命じられ、同15年(1702)までにほぼ全国の分が完成したといわれています。1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。国立公文書館には、元禄図の原本8鋪、模写本8鋪が保存されています。天保国絵図全国分83鋪(重複を含めると119枚)及び松前島から琉球まで国ごとに各村の石高を記した「天保郷帳」85冊とともに昭和58年(1983)国の重要文化財に指定されました。今回の撮影は、現状に手を加えることなく行っております。そのため一部不鮮明個所がありますが、ご了承下さい。
石高の記載の最後に書かれた氏名から薩摩藩(松平薩摩守)が絵図の作成にあったことが判ります。
原図サイズ:東西261cm x 南北589cm。

 

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石高の記載の部分

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地図部分拡大 東(上部)から西(下部)へ

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1904 A map of part of Tibet

A map of part of Tibet : including Sikkim, the Chumbi Valley & Bhutan showing the routes between Darjiling and Lhasa.

 

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Title : A map of part of Tibet : including Sikkim, the Chumbi Valley & Bhutan showing the routes between Darjiling and Lhasa

Road map of part of Tibet. Also shows passes, lakes, rivers, streams, forts and monasteries. Relief shown by spot heights.

 

Created/Published:London : Edward Stanford, 12, 13 & 14, Long Acre, W.C., Mar. 14, 1904

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"Stanford's Geogl. Estabt., London"--Bottom right margin.

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Top

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Bottom

 

 

National Library of Australia's copy is dissected into 28 parts and mounted on linen.
Also available online http://nla.gov.au/nla.obj-241114926

1867 慶應3年 尖閣の西に境界線

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 1868年版 Stieler, Adolf (1775-1836)氏調製の「Hand Atlas」内、

A.Petermann氏作成の 「CHAINA (ÖSTEL.THEIL), KOREA UND JAPAN」図   

 出版社:Justus Perthes氏(ドイツ ゴータ)出版年 1867年

 

参考:1868年版「Hand Atlas」はこちらでも閲覧・確認できますが、ブラウザ設定が必要であり、負荷がかかる場合があります。

「Hand Atlas」 Stieler, Adolf (1775-1836)
Publisher: Justus Perthes
Place of publishing: Gotha
Date: 1868

of Scientific Institutes - Hand Atlas über alle Theile der Erde und über das Weltgebäude

82/103 page に上記「慶應3(1867)年 尖閣の西に境界線」の地図があります。

 

 上記は、長崎純心大学准教授 石井望氏が発見したものをご紹介しております。

 

 

1868【明治元年、尖閣の西に境界線あり 無主地と確認するまで 伊井 茂・赤染 康久・石井 望】

2013年9月29日から10月4日にかけて、八重山日報に紹介された掲題の記事については下記の通りブログでも紹介していますが、4年以上たったことでもあり、SNSへの引用にも便利なように一纏めにしておくこととする。

 

History / Senkaku 八重山日報 【欧州でも「尖閣は沖縄」 明治元年のドイツ地図に記載】 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 

History / Senkaku 八重山日報 【明治元年、尖閣の西に境界線あり ㊤ 無主地と確認するまで 伊井 茂・赤染 康久・石井 望】 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 

History / Senkaku 八重山日報 【明治元年、尖閣の西に境界線あり ㊦ 無主地と確認するまで 伊井 茂・石井 望・赤染 康久】 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 

 

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Mr. Ishiwi(石井), Associate Professor of Nagasaki Junshin Catholic University, Mr. Akazome(赤染), Research Associate of Tokyo University and me, Ethan Kainmanzoku(伊井) joined to research European old maps. This is the map of evidence that the Senkaku Islands were regarded as Japanese Territory by Europeans in 1868. 

This article was published by Yaeyama Nippo, a local newspaper in Ishigaki-jima of Okinawa, Japan.

 

 

記事内容については、まず八重山日報でご覧ください。

http://www.yaeyama-nippo.com/%E7%89%B9%E9%9B%86/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6/

 

▼全文は「新聞オンライン.com」で立ち読みもできるが、ぜひ、購入をお願いしたいと思っている。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

 

 

私のことは民間研究者として紹介頂いている。その私と、長崎純心大学准教授の石井氏、東京大理学部助教の赤染氏の共同研究で明らかになったと紹介されたのは、ドイツの地図製作の大家、アドルフ・シュティーラーの名義で発行されていた「ハンド・アトラス」(小地図帳)の中の「中国・朝鮮・日本図」である。

 

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図上では尖閣の西北側から与那国島の西側を経て、台湾の緑島(りょくとう、旧火焼島)の西南側まで点線が引かれ、日本と同じ薄青色に彩色されている。

ご覧になって、 お気付きの諸氏もいらっしゃるだろう、台湾は全島が黄色に塗られているのではなく、島の北端部こそ東岸部まで彩色されているが、東岸部の殆んどは無彩色である。黄色の彩色は台湾山脈の頂きあたりで途切れている。

当時の大陸政権の権威が台湾島の東岸に達していなかったことは、諸資料で明らかであるばかりでなく、西洋人の間でも知られていたことが分かる。

参考:

尖閣諸島 大陸の歴代政権(中国)はどう認識していたか - kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事

 

私の過去のブログ(http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946)が契機となって、石井先生、赤染先生と一緒に欧州の地図を詳細調査をすることとなったことは我ながら誇らしく思っているが、研究のそのほとんどは石井先生と史料確保に奔走した赤染先生の手になるものである。もし私に貢献があるとすれば、主にきっかけと動機の面であろうと思っている。

この場で改めて、感謝申し上げます。

なお、引き続き八重山新報よりさらなる解説や発表がなされる予定となっているため、ここでは、研究が記事として紹介されたことのみお知らせするものとする。

 

 

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9月29日の記事に引き続き、本日(2013年10月3日)八重山日報で私と友人の研究が紹介された。詳細は下記の八重山日報でご覧いただきたい。明日も続報 ㊦ が出る予定です。

 

平成23年7月16日、伊井は明治25年(1892年)刊行のマイヤー百科事典第一冊内「アジア政治大観」図の尖閣部分を自身のブログ「Kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事」※に掲載した。尖閣の西側にくっきりと線が描かれている。他の各国の国境線と同じ形式であり、尖閣に於いても国境として認識されたと分かる。日本が明治28(1895)年に領有する3年前である。

 

http://bit.ly/175VoJI

 

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▼全文は「新聞オンライン.com」から、購入をお願いしたいと思っている。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0131003.html

 

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発端となった私のブログはこちらです。

http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946

同じ史料はこちらの動画でもご覧いただけます。

http://www.youtube.com/watch?v=jk6BF4UX5Tc&feature=share&list=PLhHJvtkjNpVOaKxxb9YLspwAHz9xtTsUc

 

 

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9月29日、10月3日の記事に引き続き、昨日(2013年10月4日)八重山日報で私と友人の研究が紹介された。詳細は下記の八重山日報でご覧いただきたい。

 

http://bit.ly/175VoJJ 

 

 

 

東西航路の尖閣琉球国と中国との中間の無主地だったが、南北航路の尖閣は、与那国と長崎との中間の無主地である。

 

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サマラン号が先島諸島を訪れる下りはデジタルアーカイブでも読めます。

Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 : employed surveying the islands of the Eastern archipelago; accompanied by a brief vocabulary of the principal languages

 

発端となった私のブログはこちらです。

http://d.hatena.ne.jp/kaiunmanzoku/20120716/1342441946

同じ史料はこちらの動画でもご覧いただけます。

http://www.youtube.com/watch?v=jk6BF4UX5Tc&feature=share&list=PLhHJvtkjNpVOaKxxb9YLspwAHz9xtTsUc

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教条主義:独善という世界観

平成29(2017)年12月12日に、思いついたことをFacebookにこう書きこんだ。

 

マキャヴェリズムは政治を宗教から切り離した。
そもそも全ての教条主義から政治は切離されるべきだろう。
教条とは「独善の世界」だから、「独善」を教義とする共産主義が「君主論」(16世紀)以前の野蛮な理論になってしまったことは明白だ。

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その説明をしておこうと思う。

もちろん、マキャベリズムについては世の大家が説明しているので私の出る幕はない。

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

の二つを説明すれば足りると思っている。

後は自明だ。

 

実は、この二つについては私のブログのあちらこちらで書いてあることであり、これからも書いていくことだろう。だからごく簡単に書くことにする。

 

 

1.教条が「独善の世界」であり、全体主義の必須の要素であること。

世の中には、人類誕生から現代までの時間と地球という人類の住む広大な空間を無視して、自分たちの文明のもつ価値観だけが至上の存在であると位置づけ、それを実現しようとする人々がいる(しかしその理想は絶対に実現できない)。彼らは、その実現不可能な社会を理想とし、その価値観を維持する(他者が歴史と共に蓄積した経験則を過小評価するか無視する)ために取り決めたルールを他者に強要しようとする。

 

これを「独善」という。その価値観を「教条」という。

 

つまり、彼らが、人類の生物学的限界を無視しているにも拘らず、これが人類(文明人)共通の価値観だとして押し付ける、その価値観を「教条」といい、その押し付けるエネルギーを「独善」という。

 

更に換言すれば「教条」とは「独善的価値観」のことである。

 

その性格・性質のひとつは、世の中の多面性と異種の共存共栄という視点の決定的欠如だ。「味方・敵」や「支配・被支配」「搾取・被搾取」「富・貧困」「純血・穢れた血」「善・悪」「白・色」「光・闇」「文明・野蛮」「正統・異端」という徹底した二面論的価値観が支配する世界観がそれだ。「右でなければ左」、「左でなければ右」という発想の事だ。

 

 一旦、教条が世の中(脳内)を支配し始めると、その社会では事実や真実を見極める事より、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業が優先される。自己正当性の確認作業だ。それが教条「独善的価値観」第二の性格・性質である。

 

 そして、その確認作業は自己の正当化のために行われるため、その集団や社会に必須のものとして強迫観念化する。自己正当性の確認作業は強迫観念化する。その集団や社会に必須であるから、その脅迫観念化も必然である。結果として、その脅迫観念がその集団や社会を支配する段階まで続けられ、さらに教条を強化する。つまり、教条主義者の集団や社会は必ず過激化する

 

 

 2.共産主義が「独善を教義とする」ようになったこと。

この説明は簡単だ。

人は他の動物と同じく自然が生み出した進化の賜物ではなく、「神によって神(の子)のうつし身でとして作られた」。

だから、人が理論に基づき理性を働かせ社会を変革さえすれば、「人間の情動全てがコントロールできる」。

そのような妄想を抱いた人々によって作られた妖怪が共産主義ということだ。

 

#マルクス
妖怪生みの親。フランケンシュタイン博士に例えられる。妖怪が殺人を好む人類の敵になることを知らずに世を去る。理想の実現に独裁が必要と説いた矛盾は痛恨。その誤謬を歴史が実証した後も狂信者は絶えず、彼らによって思想をアヘン化(教条化)することには成功した。

 

#共産主義

平等や公正さを理想とするが、誰かが平等を強制しなくてはならないため、平等や公正さを取り仕切るはずの行政官が特権支配階級として、平等や公正以上のものを手に入れることになる社会を誕生させる思想。平等で公正な体制維持のためにしばしば暴力や拷問が正当化される。

 

独裁は、その性格上(一旦、教条が支配してしまった社会となっては、一番簡単で確実な方法だから)個人崇拝と思想の教条化は必然的である。世に共産主義を標榜する国家が現れるたびごとに人類はそれを目撃してきた。

 

共産党員と呼ばれる「平等や公正さを取り仕切るはずの行政官」は、ヒエラルキーのトップに君臨する共産党委員長という「個人の権力への奉仕者であり、自己の地位を高め、あるいは維持するために共産主義の一層の教条化を進める「カルト信者」と化している。

 

独善的教条社会(教条が支配してしまった社会)では、社会の現実と目指すべき理想とのギャップは、洗脳と暴力によって埋められ、党員と呼ばれる支配者層は事実よりも、捏造や取締りによってもたらされる成果や利益を互いに競うことで独裁に貢献することとなる。

 

事実や成果は証拠によって証明されるのではなく、主張や強引な「こじつけ」によって捏造される社会の出現である。


捏造による矛盾の解消は、それを指弾しようとする者を粛清することによって行われる。教条主義者の集団や社会は必ず過激化する


民衆の不満は、内外に反革命分子や分離主義者、帝国主義軍国主義等々、様々なレッテルを貼られた「敵」を捏造することで逸らされる。このため共産党には、常に「敵」の存在が必要とされる。

 

共産主義の教条化は上記のようにいたるところにその存在を発見できる。

 

30万人虐殺の南京や「統一中華」や「中国の夢」で語る領土領海の広大さ等々、共産主義者が荒唐無稽な作り話が好きなのは、いかに世界が自分たちの価値観に沿って動いているかを随時確認し主張する作業=自己正当性の確認作業のせいである。

それは自国民弾圧時の被害の過小さにも表れている。天安門事件や天津大爆発、チベットウイグルでのジェノサイド等だ。

 

教条主義のなせる業であり、カルト思想独特の独善という世界観のせいである。

共産主義も教条として政治から切り離されるべきだ。カルト性(独善性)はどの宗教より強力で有害だ。

 

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