2015年3月3日のfacebookへの投稿等からまとめてみた
1620年代に”やまと化”した沖縄の”やまと化”を禁止した薩摩藩
1609 薩摩、琉球に3,000名余りの兵を派遣し、首里城を落して、尚寧王を捕らえる。薩摩藩の琉球支配の確定。オランダとの平戸貿易はじまる。朝鮮の窓口が対馬の宗氏となる。
1611 薩摩による掟十五条の制定、検地。
1616 松平忠輝改易
1617 徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍が1609年の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことを公式に容認する
下記に八重山日報記事あり
1619 福島正則改易
1623 松平忠直改易
1624 薩摩藩 琉球に対して政治と風俗両面のことに関する「定」に、「日本名を付け、日本支度仕り候は、かたく停止たるべきこと」と”やまと化”を禁止。オランダ、台湾にゼーランジア建設。イスパニア人来航禁止。
1628 浜田弥兵衛事件 オランダ人ヌイッツを台湾で捕縛
1630 松倉重正、ルソン遠征計画。キリスト教関連書物輸入禁止。
1632 加藤忠弘改易。
1634 琉球 徳川将軍に対する慶賀使・謝恩便を送る(琉球における参勤交代)
下記「Japan / 琉球中山王両使者登城行列 The Parade of the Ryukyu King's Delegation to Edo Castle in 1710.」の説明を参照ください。
1635 江戸幕府参勤交代制の確立
1636 出島を築きポルトガル人を置く。
1638 島原の乱
1639 ポルトガル人来航禁止
1641 鎖国の完成。オランダ人で島へ。
薩摩藩は将軍家に遠国の王ですら服属していると世間に信じさせるため、1634年以降の徳川将軍に対する慶賀使・謝恩便では、デモンストレーション効果を狙い、行列ではわざと中国風の衣装を身に着けさせた。
琉球支配が確定した後も琉球から歴代大陸王朝への進貢貿易を続けさせるためにも薩摩藩は折に触れて、”やまと化”を禁止している。
例えば、1620年代には、一般の琉球人が日本名をつけ、やまと言葉を用い、和歌も作るというように、その風俗が”やまと化”していたため、薩摩藩は琉球に対し、1624年には早くも最初の風俗に関する「定」を出している。
その後も、琉球の”やまと化”があまりに顕著なため、薩摩藩は何度もお触れを出している。
日本語を話す日本人である沖縄の人々が”やまと化”するのは自然であるが、それを、少なくとも冊封使が沖縄を訪れる際と、慶賀使として沖縄から幕府に向かう時には止めさせ、異国の衣装をまとわせたということである。
本件は、私のブログ「Japan / 琉球中山王両使者登城行列 The Parade of the Ryukyu King's Delegation to Edo Castle in 1710.」に紹介してある。
参考:
琉球王国が日本に属するとの西洋の認識の例