+++++古事記本文+++++
菟答言、僕在淤岐嶋(2)、雖欲度此地、無度因。故欺海和邇(3)(此二字以音、下效此)。言、吾與汝競、欲計族之多小。故汝者隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上(4)、走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云、汝者我見欺言竟、卽伏最端和邇、捕我、悉剥我衣服。
+++++以下は私の現代語訳+++++
ウサギが答え申しあげるには
「私は淤岐嶋(おきのしま)に住んでいました。こちらに渡ろうと強く思ってはいましたが、そのはっきりとした理由があったということもなかったのです。だからワニを欺(あざむ)いて渡ってやろうと思ったのです。
だから、ワニにこのように言ったのです『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前(けたのさき)まで並び伏しておくれ。そうしたら私がその上を踏みわたり、走りながら数えるよ。そうすれば、あなた方の一族と私の一族とどちらが多いか知ることが出来るだろう』と。すると、この言葉を信じたとみえて、欺(あざむ)かれたワニは列をなして伏したのです。私はそのワニの上を踏んで数えながら来て、この地に下りようとしたそのときに、私は『お前たちは欺(だま)されたのさ』と言い終えようとした、その時、列の最後にいたワニが私を捕えて、衣服をすべてはぎ取ってしまいました。」
(続く)
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以下、私が考慮したことを記す。この分野は浅学のため、誤りあらば指摘していただきたい。謬説を拡散する意図はなく、門外漢の視点を提供する試みがこのブログの目的だからである。
(1)無度因
「無度因」を 度らむ因なし(わたらむよしなし)と読んで、渡る方法が無いとする訳が殆どだが、「因」という字は手段や方法というよりは、主に理由や原因を示す。だから、「無度因」を 度るに因しなし(わたるによしなし)と読んで、渡る理由がないと訳した。
話の流れからしても、方法よりも理由が問われる場面であるはずですが、つい漢字の意味を離れ、「方法が無い」と解釈してしまうのは、われわれが既にこの物語を知ってしまっていて、そこから類推してしまっているのが原因である。
渡る理由がないと訳すことで、「結婚に踏み切るほどの動機がない」という意味を隠しているという表現であると考えることが出来る。下まで読んでいただければ、その意味がお分かりいただけると思う。
(2)淤岐嶋
淤は、泥であり、泥で塞がり、ぬかるんでいることを示す。o というほかに yu の音、jyu Li という音にもつながっている。「を」という振り仮名をふっている文献もあることから Wo という音もあるのだろう。
岐は、分かれ道であると同時に、高い位置、高い地位を表す漢字 gi ki の音の他 qi kei という音にもつながっている。
ウサギがいた島は、隠岐の島、沖ノ島、白兎海岸すぐそばの島等々解釈されているが、淤岐と言う文字からすると高い地位のものが泥を浴びるイメージを感じる。おそらくは、ウサギの種族、あるいは、当のウサギ自身が、高い身分にいたかもしれない。そういう高い身分の者が流された島(隠岐の島はそういう島のひとつ)であるかもしれないし、あるいは高い身分の者が汚されてしまったことを寓意しているのかもしれない。
また、泥流のようなものを想像すれば火山の噴火による火山灰や火砕流で汚された土地も想像できる。縄文期に大爆発を起こした鬼界カルデラや九州南部の火山が原因の泥流によって農作物が収穫できなかった島の可能性もあるだろう。
音からは woki wogi woji jyuqi jyukei Liqi Likei で想像される地名の山や島が いくつか思いつくかもしれない。私は、古事記がその記述の中で民族の記憶を何度も何度も繰り返し再現した表記方法をとっていると考えるので、南方から大隅半島に上陸して海の神の娘と結ばれた話(海幸彦と山幸彦)を、この話に重ね合わせたい。わたつみの国である。火山噴火による火山灰や火砕流が降り積もったシラスの泥を連想させるからだ。
また、音と文字の意味の両方から、倭(Wo)が二つに分かれた島(場所)ということも考えられる。Woki、「倭岐」、「沖」は、沖縄(倭岐魚場 wokinaba)であればわたつみの国だ*1
(3)和邇
此二字以音、下效此 これ音を以て二字とする、下はこれに倣う
と書いてあるように和邇は音を漢字に変えた名詞である。
音はWoniであろう。鰐 倭丹 倭尒 鬼 倭爾と書いて古事記に記載してあっても不思議ではないかもしれない。
以前から、私は、Woという音には倭、つまり大和や日本という意味や、私や我々という意味が込められているという主張をしてきている。
また、和邇や鰐が「をに」であり、鬼と関係しているのではないかと考えている。
そして、「をに」とは、古代の海洋を渡り歩いてきた人々とその手段(船)双方を指しているのではないかと思っている。
この物語の解説文は別途に出すつもりだが、「をに」は鰐であり、倭丹という赤鬼、赤く火脹れした菟(wo)であり、倭(wo)であり、やまと族そのもの、私(と)なんじ(倭尒=倭爾)という人々だけでなく、彼らがわたつみ、弘原海、倭的海を、船(和邇・鰐・空船・ウツホフネ・菟乍歩伏寝)で渡って来た人々と言う意味を象徴している存在だと主張するのが主眼である。
(4)吾蹈其上
兎度和邇上(ウサギが ワニの上を 渡る)と言う意味だ。
物語で利害が一時的に対決したとはいえ、鰐とウサギは同族であろう。
大国主命は国つ神の代表だが、鰐とウサギと同様に、当地に渡って来た種族である。八十神(やそがみ)という言葉と彼らが旅をしてきているという大前提が古事記に描かれているからだ。
そして、アマテラスと重なる八上姫(八十神の上を渡って来た姫とも解釈できないこともない)は大国主命や八十神の結婚の対象なのだ。
そして、和邇(鰐 ワニ)と言う字には、わたしとあなたという意味も隠れている。
吾(我)爾(あなた)を結びつける “と” (ウサギ=兎)が、我とあなたの間(和邇の間)を飛び跳ねて、数を数えている。これは “と” (ウサギ=兎) による縁結び(度)に通じている。そんな様子が文章に隠されているのだ。
また、「雖欲度(渡らむと思へど)」と結婚願望があったけれども、「無度因(わたるによしなし)」と書いてあるように、恋に落ちることもなく、こう言う人が良いという理想も、この人ならと強く惹かれる人もなく「私が和邇(私の貴方)和邇和邇と(八十神も含む)大勢の男たちを欺いて走り来たのに最後の(私の)あなた(爾)、大穴牟爾神、に衣を全て脱がされてしまいました」という意味も含まれているようだ。
つまり、このウサギは八上姫でもあるのだ。
このブログでの紹介はもう少しかかるかもしれないが、紹介の要旨は上記のとおりであり、賢明なる諸君には、これだけの話でも想像を膨らませるのに充分であろう。
2016年11月27日 現代語訳の漢字部分を、かなやカナに代え、ふりがなを振った。漢字のニュアンスや状況が分かるように形容詞を必要に応じて付加した。
2016年11月29日 淤岐嶋の項で「わたつみの国」と「倭(Wo)が二つに分かれた島」の表現の下りを追加した。また、(4)吾蹈其上 以下の緑色文章(一部青字)を追加した。どちらも、この考えを述べるに適当な部分がココしかないと気付いたためだ。
最上部に【超訳】を置いて、そこだけ読めばこのブログの趣旨がわかるようにした。
2016年12月5日6日 和邇和邇和邇の説明部分は、和邇(私の貴方)の方が分かりやすいのでその趣旨が分かるように訂正した。