kaiunmanzoku's bold audible sighs

Be love Be peace Be harmony Be compassion Be joy

Wherever there is a human being, there is an opportunity for a kindness. 引用・転載はご自由に。ただし、引用元・転載元だけ明記ください。 Feel free to copy and reprint but please just specify an origin of quotation.

チャイナやコリアがいう「東海」は東の陸の果て、「南海」は南の陸の果てのこと

チャイナやコリアがいう「東海」は東の陸の果てのことで、「南海」は南の陸の果てのことだ。
海上勢力でない彼らにとって「海(カイ)」は境と言う意味の「界(カイ)」であり統治の及ぶ限界であった。中華思想文化圏の人々にとって文字通り「海」とは「界」と同義であり、文明地域に対する周辺の未開の地域との境界のことで、「陸の果て」「地の果て」「(中華文明の)治の果て」の意味である。東の地(治)の果てを「東海」と言い、南の地(治)の果てを「南海」と言うからこそ、中華文明の光や皇帝の威光は東西南北の四海の手前まで及ぶというわけだ。

 

そして「海外」とは、国の境の外という意味の「界外」であり、それは「洋」という漢字で表される。「海内」が四海の内(側)、国内という意味で用いられて「天下」という意味を持つのも中華皇帝の支配範囲が、地の続く限りで、地の果てまでであることを示している。


さて、「洋」だが、「洋」とは東洋、西洋と用いられるように外国のことである。
いまでも「洋行」と言えば国外に出る事だ。


「洋」と言う字には「羊」がいる。

羊を贄として沈め、海神に航海の無事を祈る儀式が行われていた。

実際に、冊封使を載せた船上から生きた猪や羊が生贄として海に投げ入れた記録がある。それは、「いずれの王も統治していない世界」、「文明の光の外の世界」に出たがゆえに、その世界(海の王国)の人外の王(海神)に敬意を表するためである。

つまり、「洋」とは、中華皇帝やその他の人間の王の支配の及ばないところ。あるいはその方角の国のことだ。

 

このように、尖閣に中華皇帝の統治は及ばず、日本海はコリアが主張する「東海」ではないという理由は漢字の成り立ちからでも自明である。地の果て、沿岸が「海」なのだ。

 

 

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馬琴は姑巴嶋を、超能力者である曚雲の千里眼の能力の及ばない遠島として椿説弓張月に描いた

椿説弓張月 曚雲の最後の場面


曚雲が慌てて風を起こし、雲を呼んで空中へ上ろうとするところを舜天丸は「姑巴嶋」で三社の神に祈念を込めた桃の枝で作った矢に義家と記した小金の札を取添え、弓を満月のように引き絞って放つと、どこかに鶴の鳴き声がして、その矢は流れる星のように、曚雲の咽喉を砕いて深く突き刺さったので、曚雲は地上に転げ落ち、為朝は宝剣をもって九度、刺し通し、遂にその首を切り落とすと、一天俄に掻き曇って、大雨が降りだした。

 

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 画像は下記より

椙山女学園大学デジタルライブラリー 椿説弓張月  前編六巻・後編六巻・續編六巻・拾遺六巻・残編六巻

http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/dl/Yumihari/Zan/show.php?s=18&e=30&fn=zan4/019

 

ここに出てくる「姑巴嶋(こはしま)」だが、物語では、為朝、舜天丸、起平治の一行は、曚雲千里眼を怖れて姑巴嶋へ潜伏して、そこから琉球に向かうという筋立てだ。

この「姑巴嶋」、馬琴が物語の舞台としたのは尖閣諸島久場島でないと言い切れるだろうか。

ここに有力な証拠がある。

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画像は下記のサイトで見られる。画像の赤線と囲みはスクリーンショット後に描きいれたものだ。

椙山女学園大学デジタルライブラリー 椿説弓張月  前編六巻・後編六巻・續編六巻・拾遺六巻・残編六巻

http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/dl/Yumihari/Zan/show.php?fn=zan1/018&s=7&e=18

為朝と寧王女(ねいわんにょ)が、佳奇呂麻(かけろま)の林太夫(りんたいふ)が操る船で、共に姑巴嶋へ向かうところを書き記したページだ。

 

船は、東馬歯山・西馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米島)、度那奇(渡名喜島)、安根呢(粟国島)を抜けて、姑巴嶋へと向かっている。

文中には、神の導く快速の船で「数十里の海路」を半日ほどと書いてある。実際の尖閣諸島までは沖縄本島近くから四百数十キロなので「百数十里」となるが、注目していただきたいのはそこではない。

琉球の国外への門戸である東馬歯山・西馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米島)、度那奇(渡名喜島)、安根呢(粟国島)を抜けて船が出ていっているという事実である。

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これは先にブログで書いたが、

三十六島此門戸、絶類竿塘石虎五」

「三十六島、此れぞ門戸なり、はなはだ類す竿塘と石虎五」と李鼎元が詠んだ島々そのものである。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

つまり、馬琴は姑巴嶋を、超能力者である曚雲の千里眼の能力の及ばない遠島として椿説弓張月に描いたのである。尖閣諸島久場島の可能性が充分ある。

 

下記はWikipediaから抜粋引用する。

椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本

文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5篇。

鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという伝説がある)するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。

椿説弓張月 - Wikipedia

無中生有(むちゅうしょうゆう)は、三十六計の第七計。

呉の孫堅荊州劉表を攻めようと河南省鄧県の辺りへ向かったとき、劉表の最前線は黄祖を大将として対岸(漢江)に堅固な防御線を引いていた。

孫堅孫策の精兵が群れを成して何度か岸辺に上陸を試みたが、皆ばたばたと射殺されてしまう有り様だった。

戦況不利と見た孫堅軍は矢の届かぬ距離まで陣を引き、一計を案じた。

夜に入ると付近の漁師の小さな漁船まで借り出し、無数の小舟を用意して列ね、赤々と、かがり火を焚かせ、黄祖軍に夜襲を仕掛ける様子を見せた。

真っ暗な川面に無数に光り輝くかがり火である。その様は無数の大軍が押し寄せてくるように見え、兵に恐怖心を呼び起こし、黄祖軍は弩弓といわず火矢といわず矢と言う矢を射られる限りに射たのだった。

しかし、その小舟には兵は乗らず船を操る水夫だけが乗っていたにすぎない。その正体がわからないように夜が明ける前に引き揚げていくのだった。

孫堅軍は、そういうことをそれから毎日繰り返したのだ。

さすがに七日七夜続けると、7日目には黄祖軍も空の船であることに気が付いたが、連日連夜の徹夜で疲れ果ててしまっていて、ろくろく応戦もしないでいた。

そして、その次の日の夜に今度は強兵を満載した船で向かったところ、水上で攻撃を全く受けることなく、無傷で続々と岸辺に上陸できた。いまや雲霞のごとき孫堅軍は一挙に黄祖軍を打ち破ったのであった。

 襄陽の戦い

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無中生有(むちゅうしょうゆう)は、三十六計の第七計のことで、

「無中に有(ゆう)を生ず」ともいう。

 

最初に、敵が本気にするような、はったり、偽装を敵に示して欺く。

次に、それがはったり、偽装であることを敵に気づかせる。

何回も何回も繰り返し、相手が油断するか、疲れ果てるのを気長に待つ。

仕上げは、一気呵成の攻撃だ。

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中共の艦隊や飛行隊が、盛んに宮古海峡を行ったり来たりを繰り返している。同じように尖閣の接続海域や領海に中共の公船が出たり入ったりを繰り返している。

 日本の主権を脅かそうというデモンストレーション(示威)の一環であろう。

つまり、

①歴史や国際法を無視した主張、

中共籍船舶や飛行機による領海や領空への侵犯、

排他的経済水域での違法行為等

これらは、最初のうちこそ臨時ニュースになり、緊張感が国民の間に溢れていた出来事であった。しかし、耳にし、目にすることが当たり前のようになってきている。

報道もどんどん扱いが小さくなっていく。

だが、漁船に民兵を満載させてやってくる日は今日かもしれないではないか。

 

理想は、充分な備えと心構えを見せて、相手に「デモンストレーションは無駄だ」と諦めさせることだが、まずは普通の国の普通の領海・領空・経済水域の警備を行わねばならないだろう。

違法行為は拿捕し、検挙し、起訴する。危険行為は相手の船舶や航空機に損傷を与えてでも阻止する。必要充分な警備活動を普通に行うことだ。警告をし、必要な安全を考慮したうえの正当な職務執行中に起きた結果については、その原因を作った側が負うべきだ。

尖閣には安全航行確保や人命救助のための有人監視施設も必要だろう。

 

2017年3月26日 具体的提案等についての部分を文章を入れ替えて書き直した。

なお、無中生有の例として孫堅孫策黄祖の戦いを用いたのは Wikipedia を真似たのだが、物語は黄祖孫堅とのこの戦いに勝った後に江夏城を得て江夏太守となったという形に改めた。

 

 

 

 

教育は学科や学力の事ではない

【教育は学科や学力の事ではない】

 

論理性と倫理性を育てること。
そうすれば芯の通った人間になることが出来る。

 

芯の通った人間になりさえすれば、いづれ「志」を持つようになる。

世の中で「夢を持て」と言われている。文明開化時に ”Dream” という言葉を「夢」とだけ訳して「志」という訳を付けそこなったことが理由だ。最初から「夢」と「志」の両方の意味があると訳しておけば、誤解せずに育った人々が今よりずっと多いだろう。とっても残念だ。

 

つまり、」を持てる芯の通った人間を作るために、論理性と倫理性を育てるのだ。


志を持つことの大切さというのは、芯の通った人なら、その志で何を学び何をすればよいかが自ずとわかり、実行できるというその一点にある。


それが教育によって人を作るということだ。
私やあなた、私やあなたの子供たち孫たち、家族や友人、世の中を救うということだ。

 

人にはがあると知り、お互いに尊重し合って生活できる知恵のことを「教養」という。

 

今の国会を見ていると戦後の学校に教育が不在だったと嘆くしかない。

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東芝再建策私案 三井住友重工を創設せよ

WHに限らず、米国の原子力産業は原子力発電所の設備建設に数十年という長期間のブランクがあった。オバマ政権下で発電所建設が推進されるにあたり、日本の企業との合併はそのギャップを埋めるはずだった。


その一方で、東芝原子力部門は沸騰型原子炉から出発しWHの加圧型原子炉を製品群として加えることで世界の原子力発電のリーダーを目指していて建設畑のノウハウのギャップを埋めるはずの米国側と相互補完の関係になるはずだった。


しかし、結果は米国での工事管理はWHに丸投げされていたかのようだ。海外で発電プラント建設経験豊富な東芝は何をやっていたのか。経営をその権限ごと丸投げして請負わせていたのだろうか。米国の最先端技術を日本の親会社にも渡すまいとするなら、建設管理のノウハウも渡しようがないだろう。


残念ながら、今まで見て来たどの記事もどの報道もその視点を欠き、そんな現実が生じたかどうかすら知りようがない。


いま、チャイナや南鮮の企業がWHを取得したところで、米国の企業の技術だけを物まねできると思ったら大間違いだし、彼らにその技術を渡すべきではない。チャイナは敵だし、南鮮は敵に渡るかもしれない。


東芝から(原子力だけではなく)電力部門を、その付随する全てのエンジニアリング部門を含めて切り離し、IHIや日本製鋼所、その他の発電関連部門と合併して三井住友重工を作るべき時が来た。かの土光さんの時代に浮上した「三井重工案」の現代版を検討すべきだ。そしてWHはその傘下に入れるべきだ。

現代版という言葉を使っているのは IoT 等のインフラを伴う社会的需要に答えるだけの国際的競争力を持った新しい企業形態を、この際模索すべきだという意味である。

 

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*上記はFBに【三井重工を創設せよ】として掲載したものを手直しした。

南朝皇統デマ 1457年12月以降、南朝の皇統を継ぐ血統は史実上絶えている

長禄元(1457)年12月の「長禄の変」以降、南朝の皇統を継ぐ血統の行方は、現存する史実では未確認状態です(2017年3月8日17時現在)。

 

未だに動画サイト等で、南朝の皇統を継ぐ人物が幕末に存在したということを紹介しているものが見受けられ、巷間に流布するデマの信者が絶えないようです。

しかし、そのいずれも根拠が乏しいものばかりです。

先に一度、私のブログに書いたのですが、誰も見てくれていないようなので、もう一度多少は読者の多いこのブログに書き直しておきたいと思います。

先のブログはこちら:

南朝の皇統を継ぐ人物が幕末に存在したということを紹介している動画サイト等について - kaiunmanzokuのざれごと、たわごと、綺麗事

 


「長禄の変」以降の南朝の血統の行方は現在に至るまで不明であり、新しい史料の発見がない以上、南朝皇統の血統は絶えたと判断するしかありません。


その「長禄の変」を記す最後の信用できる史料(上月記、赤松記)が記していることに着目していただきたいと思います。

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上の画像は、現代史の一人者である秦郁彦先生の「昭和史の謎を追う熊沢天皇始末記の一節からスキャンした画像です。
南朝の血統の行方を記す最後の信用できる史料が記す「長禄の変」について説明がなされています。

田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項に、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月27日)に赤松満祐の遺臣らが謀略をもって後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である一宮(自天王)と二宮(忠義王)の兄弟を討って、神璽を奪って朝廷に還した旨の記述が「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」とあります。この上月記、赤松記を紹介して、これ以上の史料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。

特に共に御名並びに御系統を審らかにせず」には後南朝系の記録が徹底的に抹殺破壊されたことも含まれる表現であることにご留意いただきたいのです。

自天王」・「忠義王」が本名でないことも、この表現でお分かりいただけると思います。本文には「一宮」「二宮」とだけ記されているのです。そんな痛ましい限りの(後南朝系の記録が徹底的に抹殺破壊された)状況が上月記、赤松記に記されている共に御名並びに御系統を審らかにせず」なのです。

 

正統な歴史に史料を以って異議を唱えるのは学問の自由でよろしいが、インターネット上で真実であるかのようにデマを広げて貰っては困るのです。根拠を示す史料がない場合は、自分の意見であることを示すか、創作や空想、仮説の類であることが分かるよう明記するべきと思います。

 

余談ですが、足利尊氏を悪玉に楠木正成を善玉にする南朝正義説ともいえる南朝イデオロギーのバックボーンは意外にも水戸光圀楠木正成礼賛に元を置く歴史が浅いものです。

少し考えてみて下さい。

北朝は、持明院統後嵯峨天皇(88代)の長子である後深草天皇(89代)に始まります。一方、南朝大覚寺統後嵯峨天皇次子である亀山天皇(90代)が始祖です。

明治憲法以降の皇室典範は明確に長子相続を規定しています。この論理で言えば皇位継承の正当性は北朝にあると言えるではないでしょうか。後醍醐天皇大覚寺統であり傍流出身のために治天の地位に就く権利が否定され、子孫への皇位継承が出来ない天皇であったことも忘れられがちです。

この問題は、章を改めて述べる機会があればそうしたいと思います。

幕末維新の南朝イデオロギー水戸光圀が生み出し、山形有朋が明治政権の基礎作りに用いたプロパガンダと考えても良いと思っています。

今後新しい史料の発見が報じられることなく、南朝の皇統が論じられることがあるようなら、それはデマゴーグであるとだけ言っておきます。

 

 

 

 

第0列島線 明朝の海防最前線 / 「海」とは「地(治)の果て」のこと 明朝の国境線は海岸線

「香港は中国の一部ではない」と主張する香港独立派には立派な歴史的文化圏的根拠がある。それは、歴代チャイナ政権が第0列島線を海外勢力との緩衝地帯として海防最前線として来ている事実がそれにあたる。

 

「国境や国民国家の一体感があまり意識されない時期」に「意識されない地域」を生きていた人たちが持っていた「東アジアの共同体」と言う概念は創作物であり、有害なプロパガンダである。

そのような幻想を持つ者達こそ「死守すべき国境線」なるものが、いつ、どのようにして決定されたのかについて少しは歴史的に吟味してみた方がよいだろう。

そして明代17世紀のチャイナにとって、尖閣列島の存する東シナ海や多くの環礁がある南シナ海において倭寇やスペインポルトガルと言った海洋勢力から「死守すべき国境線」は、第0列島線であった。

 

 

第0列島線は国境線ではない。海外勢力との緩衝地帯であり、海防最前線である。


明の国境線は海岸線までと大明一統志に明記されている。

大明一統志だけでなくその他の多くのチャイナ側の史料に記載されている通り、非海洋民族であった歴代のチャイナ政権にとって「陸の果て」が統治の限界だったのである。チャイナ人にとって文字通り「海」とは「界」と同義であり、文明地域に対する周辺の未開の地域との境界のことで、「陸の果て」「地の果て」「(中華文明の)治の果て」の意味である。東の地(治)の果てを「東海」と言い、南の地(治)の果てを「南海」と言うからこそ、中華文明の光や皇帝の威光は四海の手前まで及ぶわけだ。

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さて、海防最前線のことだ。
明の海防最前線は「南は台山(現・台山列島)、礵山(現・四礵列島)、東湧(現・東引島)、烏坵(現・烏坵嶼)、彭湖(現・台湾の澎湖諸島)彭山(現:南彭列島)までと皇明実録に記載されている。
また、「此海外要地倭船多由此過」「これ海外の要地なり、倭船は多くここより過ぐ」と虔臺倭纂の絵図の東湧横に注記されている。 東引島は「海外」だった。

 

これを踏まえた明朝の第0列島線とは下記の図のようになる。

 ちなみに、現在でも、馬祖・金門は台湾の勢力下にあり、大陸政権下にはない。香港やマカオの独立運動には歴史的な意味があるのである。

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2017年3月18日下記部分を付け加えた

「国境や国民国家の一体感があまり意識されない時期」に「意識されない地域」を生きていた人たちが持っていた「東アジアの共同体」と言う概念は創作物であり、有害なプロパガンダである。

そのような幻想を持つ者達こそ「死守すべき国境線」なるものが、いつ、どのようにして決定されたのかについて少しは歴史的に吟味してみた方がよいだろう。

そして明代17世紀のチャイナにとって、尖閣列島の存する東シナ海や多くの環礁がある南シナ海において倭寇やスペインポルトガルと言った海洋勢力から「死守すべき国境線」は、第0列島線であった。

第0列島線 福州を出ると間もなく清国の領域外であった 李鼎元 馬齒島歌

李鼎元の漢詩『馬齒島歌』に

「三十六島此門戸、絶類竿塘石虎五」

三十六島、此れぞ門戸なり、はなはだ類す竿塘と石虎五と

(読み下し文はいしゐ氏から)

慶良間諸島久米島という島々三十六島」は、琉球の門戸である。

清国の門戸である五虎門、馬祖列島と、他に類を見ないほど似ている

 その国境の目印としての役割出入国の出入口という意味の両方で他に類を見ないほどそっくりだということだ。

この国境の再発見は2015年の6月に発表された。発表したのは長崎純心大学准教授の石井望氏だ

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 上の図は清の門戸、五虎門、東引、北竿、南竿、莒光の位置。

琉球の門戸「三十六島と 清の門戸「竿塘石虎五」とが両方提示されたということは、

その中間が存在しているということだ。

つまり清国の外交官である李鼎元が「いずれの王によっても統治されない領域」すなわち「無主地」の存在を認知していた証拠だ。もちろん中間の尖閣は無主地だ。

チャイナの主張は中間領域を認めていないが、それが誤りだと分かる。

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上は久米島と粟国、渡名喜、座間味、渡嘉敷と並ぶ琉球の門戸の位置。

下は慶良間諸島Wikipediaから引用)船から見ると、馬歯のように見えたのであろう。

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清の門戸を日本人向けの観光地図に位置を書き込んでみた。五虎門は観光地だ。閩江の河口の流れを使って出航するのに適した場所に五虎門ある。

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下のGoogleの地図で見ると、五虎に例えられる島が、想像以上に大陸に近くにある。

当時は、そこを通り過ぎると、もう「門外国外)」であった。

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以下の画像は いしゐのぞむ氏のホームページからのものだ。

詳細説明はこちらのホームページでご覧いただきたい。

senkaku.blog.jp

 

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中国とは文明が栄え仏の教えが説かれている国。中華人民共和国や中華民国のことではない。

【中国とは元々はインド北部地域の事】

 

正真正銘の中國から 後漢に伝わった「仏説 四十二章経」 に「中國」が出現する。

 

仏説四十二章経 は、インドから一度さらに西域に伝わった仏教が安息国(イラン)や大月氏経由で後漢に伝わって、元(もと)の梵語から漢訳された初期の仏教典のひとつ。
後漢の皇帝が夢の中で金色に輝く「金人」を見て西方に仏がいることを知り、大月氏国(アフガニスタン北部)に使者を派遣して『四十二章経』を写させたと言う伝説がある。

下記の画像は 迦葉摩騰, 竺法蘭 訳[他] 国立国会図書館デジタルコレクションから。

国立国会図書館デジタルコレクション - 仏説四十二章経

 

「六根既に具えるも、中國に生るること難し」とある。

 

六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹のことである。

つまり、六根とは 眼根(視覚)、 耳根(聴覚)、 鼻根(嗅覚)、 舌根(味覚)、 身根(触覚)、 意根(意識) のこと。


「それらが備わってい(六根清浄であっ)ても中国に生れることは難しい」の意味だ。

 

これはお釈迦様の言葉である。お釈迦様が中国と言っているのは、当然いまの中華人民共和国のことではない。釈迦が活躍したインド北部地方であり、仏教の教えが語り継がれるような文明地域のことだ。

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ちなみに、「六根既に具えるも、中國に生るること難し」の前後を併せて書き記してみる。

 

佛の言わく、人悪道を離れて、人たること難し、

既に男たることを得るも、六根完具すること難し、

六根既に具えるも、中國に生るること難し、

既に中國に生るるも、佛世に値ふこと難し、

既に佛世に値ふも道者に遭ふこと難し、

既に道に遭ふことを得るも、信心を興すこと難し、

既に信心を興すも、無修無體なること難し

 

となる*

この世に生まれ出て、人として生まれる事や文明が栄え仏の教えが説かれている国中國)に生まれる事や、仏がまさに現世に出現して教えを説いている世の中に生まれ出ても、その悟りをに導いてくれる人(仏、道者)に出会う事、そして悟りを得ることのむつかしさを説いているお経の一節である。

 

このような中國の意味を知ってしまうと、現在の中華人民共和国やかっての中華民国を中國と呼ぶのを差し控えたくなるのは当然だと思っている。

願わくは、ダライ・ラマ法王猊下提唱の Middle Way が成就し、東ユーラシア大陸の巨大国家に仏の教えが広まり、本物の中國が実現し人々が救われる日が来たらんことを!

 

なぜ、戦後日本で支那を「中国」と呼ぶのか?》については、下記のブログを読んでほしい。

チャイナはチャイナ、現在では「中国」も「統一中華」も周辺諸国侵略のためのプロパガンダとして使用されている。チベットウイグル満州等は断じてチャイナではない。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

支那を皇帝が自称していたことについては、こちらを参照下さい。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 ⋆『四十二章経』の原文(漢文)とその意味を知りたい方のために簡単な解説

佛言。      仏様は仰られた。

人離悪道。得為人難。三悪道(地獄、餓鬼、畜生)から離れて人間に生まれるのは難しい

既得為人。去女即男難。人間となっても、男として生まれるのが難しい

既得為男。六根完具難。男となっても体や精神の機能に何も欠点なし(六根清浄)で生まれるのが難しい

六根既具。生中国難六根揃ってても、中国(文明が栄え仏の教えが説かれている国)に生まれるのが難しい

既生中国。値佛世難。中国に生まれても、ちょうど佛が世に居る時生まれるのは難しい

既値佛世。遇道者難。佛が世に居る時期に生まれても、善知識(道者)と遭遇するのが難しい

既得遇道。興信心難。道に遭遇しても、これを信じる事が難しい

既興信心。発菩提心難。佛道を信じるようになっても、自ら菩提心を起こして修行に入るのが難しい

既発菩提心。無修無証難。菩提心を起こしても、証得するまで出来るのが難しい

 

南蛮寺興廃記 即心即仏の奥義

「南蛮寺興廃記」


天正五年(1577年)のことだとされる。 キリスト教側は南蛮寺の学僧フルコム(ルイス・フロイス?)、その他のバテレン、イルマン達である。


仏教側は南禅寺の印長老(268世、梅印元冲?)の他、浄華院の理道和尚、永観堂の深海律師などの学僧達が出席した。


諸宗の僧侶が居並ぶとフルコムを論師として南蛮寺の学徒達が席に出てきた。 南蛮寺代表フルコムは蜀紅錦の衣を着し、二尺余りの長剣を帯びて、僧侶に向って進んだ。僧侶の方から南禅寺の印長老がこれに対し法論が始まった。


最初にフルコムが印長老に質問した、「仏法とは何であるか?」


印長老は答えて言った、「即心即仏」。


フルコムはまた尋ねた、「即心即仏の奥義は何であるか?」。 


印長老は重ねて云った、「即心即仏」。


その時、フルコムは座を立って、長老に近づいて胸をつかんだ。


彼は遂に剣を抜いて胸に突きつけて迫った、「即心即仏の奥義とは何であるか?」。


しかし、印長老は平然と眼を閉じて黙然としていた。


その時、側にいた浄華院(京都、浄土宗の寺)の理道和尚(理同和尚?)は、長老が眼を閉じて黙然としていたのを見て、印長老の負けだと誤解した。


そこで自分が代わろうとした。


しかし、印長老の弟子達は少しも騒がず、まだ事の落着は見えない。もう少しお待ち下さいと理道和尚を引き止めた。


その時、印長老は忽ち眼を開けて「カアーッ!」と大声一喝した。


フルコムは眼をふさいでたまらず卒倒(気絶)してしまった。


この安土城での法論は「南蛮寺興廃記」に記述されている。


画像は

 

南蛮寺興廃記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

【南蛮寺興廃記】

 

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永続的識別子 info:ndljp/pid/2541597 タイトル 南蛮寺興廃記 著者 雪窓, 宗崔 出版年月日 慶応4(1868)序 請求記号 198.21-N622 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000003283624



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