kaiunmanzoku's bold audible sighs

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1944 日本 西南太平洋精圖 南シナ海の島嶼群が日本名を付けられて表記

豪州国立図書館所蔵

Seinan Taiheiyo seizu [cartographic material] = [Map of southwest Pacific Ocean]

 

Creator:Asahi Shinbunsha 朝日新聞社
Title:Seinan Taiheiyo seizu = [Map of southwest Pacific Ocean] / compiled by Asahi Shinbunsha 西南太平洋精圖 朝日新聞社
Created/Published:Tokyo : Asahi Shinbunsha, 1944 東京 朝日新聞社 1944年

全体図

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主要部

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南シナ海部分

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南シナ海島嶼部拡大

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東シナ海部分

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終戦1年前の西南太平洋が描かれている。

西沙諸島スカーボロー嶼というサンゴ礁からなる島嶼群には日本名はついていない。

南シナ海島嶼群が日本名を付けられて表記されている。

SF条約で日本が権利を放棄したもので、戦勝国による取り扱いが未だ決まっていない。SF条約の当事国でない中華人民共和国が不法占拠する権利はない。
SF条約調印国(日本も一方の当事者)で法的な扱いをどうするかを決する議論に参加する義務があろう。

SF条約で日本が権利を放棄した太平洋の南洋諸島群についても、必要なら旧宗主国としての義務を果たすべきであろう。

1808-1814 英国  アヘン戦争前の地図 尖閣無色 台湾黄色 八重山は琉球と共に青

豪州国立図書館所蔵

China and Japan [cartographic material]

 

Title:China and Japan / drawn and engraved for Dr. Playfair's Geography; engraved by H. Cooper, 28 Chancery Lane
Author:Playfair, James, 1738-1819

全体図

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拡大図

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所見:

1800年代に入り英国は清にアヘンを輸出、たびたび清はアヘンの輸入を禁止していた(1800、1815、1839林則徐のアヘン焼却)。やがて、1840-42アヘン戦争へとつながる。そのころの英国地図。

▼チャイナの範囲は清帝国の版図と切り離して描かれている。清は1827年に満人の漢俗化を禁じている。

▼台湾はチャイナと同じ黄色、尖閣諸島は無色、八重山諸島琉球諸島、日本列島と共に青く彩色されている。当時の英国の認識による色分けと思われる。

▼興味深いことに、チャイナ沿岸の島々は黄色に塗られているものと、そうでないものがある。金門島は無色、東湧島と呼ばれていた馬祖列島も無色に見える。

▼小島でもあるに拘わらず三仙臺(SAN-HSIEN TAI)が描かれている。Law I.と記載されているので緑島との混同があったものと思われる。本来の緑島はもう少し離れている。

1894 英国 尖閣は先島諸島に含まれる 日清戦争の講和と賠償金に関与した英国の認識

豪州国立図書館所蔵

Title:Stanford's map of eastern China, Japan and Korea : the seat of war in 1894
Author:Stanford, Edward, 1827-1904

オンラインの地図のロケーション: https://nla.gov.au/nla.obj-231212461

全体図

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尖閣部分拡大図

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所見:

尖閣台湾付属島嶼ではなく先島諸島、 Majico Sima Group (宮古島グループ)だと認識され青緑色で一纏めにされている

▼Majico Sima Group は、"(To Japan)" の表記の通り、尖閣諸島も含め日本に属するとの認識が確認できる。

▼地図左下方に「1894」の文字。発行年が1894(明治27)年であることが確認できる。下関条約1895(明治28)年3-4月に談判が開始され調印された前年に英国が「尖閣諸島先島諸島の一部として日本領である」と認識している証拠である。なお、日本政府による尖閣国有化は1895(明治28)年1月。

日清戦争の講和と賠償金に関与した英国

黄海海戦の後、1894(明治27)年11月上旬から米、、露が調停のための非公式の斡旋を開始している。1895(明治28)年3月から始まった正式の交渉では講和条約による賠償は調印の前々日まで調整が行われ、支払方法の交渉は4月15日まで続いている。賠償金が清国の賠償能力を超えていたため難航したのだ。結局、日本は清国に対して3回分割英ポンド金貨を支払わせている。
1873(明治6)年の台湾出兵が英国の斡旋で清国から賠償金を得た後も、日清戦争後の下関条約でも英国の斡旋があり、清国からの賠償金はいずれも英ポンド金貨で支払われた
清国は、その支払い能力を越える賠償金を払うのに外国からの借款に依存せざるを得ず、清国外債の発行や引き受けに英国人ロバート・ハートの活躍があった。ロバート・ハートは英国人でありながら清国政府の総税務司という特殊な立場に有った人間である。

1898(明治31)年春の第3回目の1600万ポンドの支払いは、威海衝を占領していた日本軍の撤退条件となっており日清という当事国のみならず、関係国(英国と三国干渉の露・独・仏)にとっても重要な意味を持っていた。

尖閣諸島の帰属については、台湾出兵時に斡旋をした英国のみならず、下関条約に間接的に関与した国々にとっても関心事であったはずだ。

▼当事国である清が尖閣を自国領と認識してなかった証拠については次を参考にして欲しい。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

megalodon.jp

1849 独 台湾西海岸を赤く塗り尖閣は無色 チャイナ帝国と保護国(満州とモンゴル、東トルキスタンとチベット)と日本帝国

米国国会図書館所蔵 1849(嘉永2)年 ドイツ

チャイナ帝国と保護国満州とモンゴル、東トルキスタンチベット)と日本帝国の図

www.loc.gov

Title:Das Chinesische Reiche mit seinen Schutzstaaten (den Ländern der Mandschu und Mongolen, ost Turkistan und Tübet) und das Kaiserthum Japan
Contributor Names:Weiland, C. F. (Carl Ferdinand), -1847. Kiepert, Heinrich, 1818-1899. Geographisches Institut (Weimar, Thuringia, Germany)
Created / Published:Weimar : Im Verlage des geograph. Instituts, 1849.

 

 

全体図

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沖縄本島部分拡大図

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台湾島尖閣諸島部分拡大図

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所見:

澎湖諸島台湾西海岸のみを赤く塗り、台湾島山間部から東半分にかけ宮古島諸島を薄緑色で塗ってある。赤色は清の道光29年時の清の統治の及ぶ範囲が反映されていると思われる。

▼【台湾人は漢人に非ず】台湾は元代には荒れ果てた地であり、中国名で「東蕃」が住む土地とされていたことが、大清一統志に記載がある。上の項目で指摘した薄緑色は  Unabhängige Völkershaften(独立した民族)の住む場所を示している。台湾が東蕃と呼ばれた台湾原住民の地であり、宮古島にも原住民がいることを表している。

台湾北方3島尖閣諸島は無色であり、住民がいない無主の地であることを示している。

沖縄本島近辺の島々は Likejo Inseln(琉球の島々)と表記され、チャイナ読みと日本語読みがカッコ内に記され、島々は緑色に塗られている。それより北方の薩摩支配の島々が黄色く塗られ、南の宮古島諸島が薄緑色であることで区別されている。

▼地図名の邦訳が「チャイナ帝国と保護国満州とモンゴル、東トルキスタンチベット)と日本帝国の図」となっている通り、チャイナの範囲と満州、モンゴル、東トルキスタンチベットは区別されて描かれている。清の皇帝が影響力を及ぼす地域には、中華皇帝として君臨するチャイナ大ハーンとして間接統治する保護国があることは欧米諸国でも常識として知られており、地図作成者がそれを反映し線を引き彩色したことは確かだろう。

 

1861 1871 1881 英国 無主地として描かれた尖閣が琉球諸島(To Japan)として描かれるまで

下記3点の地図は、いずれも同じ国(英国)、同じ作者による同じ出版社の発行になるものだ。そしていずれも米国国会図書館所蔵である。

Title:China and Japan
Contributor Names:Johnston, Keith, 1844-1879.
Created / Published:Edinburgh : W. & A.K. Johnston

1895(明治28)年以前の尖閣諸島国際法上は無主地であったが、欧米の地図の上では沖縄県に編入される正式の手続以前に日本領と認識されていたと分かる。

 

1861(文久1)年 英国 無主地として描かれる尖閣

参考地図 米国国会図書館所蔵

www.loc.gov

関連部分図

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尖閣部分拡大図

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所見:

Tia-yu-su、Hoa-pin-suと表記された尖閣は台湾北方3島と同じく無色。無主地として描かれていると思われる。

宮古島諸島は琉球に属すとされ琉球諸島が全て黄色で塗られている。

 

 

1871(明治4)年 英国 まだ無主地として描かれる尖閣

参考地図 米国国会図書館所蔵

www.loc.gov

関連部分図

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尖閣部分拡大図

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所見:

Tia-yu-su、Hoa-pin-suと表記された尖閣は台湾北方3島と同じく無色。無主地として描かれていると思われる。

宮古島諸島は琉球に属すとされ琉球諸島が全て黄色で塗られている。

 

 

1881(明治14)年 英国 尖閣琉球諸島と同じ黄色に塗られ日本に属すとして描かれる尖閣

参考地図 米国国会図書館所蔵

www.loc.gov

関連部分図

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上記の尖閣部分拡大図

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沖縄本島部分拡大図

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所見:

Tia-yu-su、Hoa-pin-suと表記された尖閣が他の沖縄諸島と同様に黄色く塗られている。下記と併せ日本のものであると地図作成者が認識していると分かる。

沖縄本島の左下に(To Japan)の表記がある。

台湾北方3島台湾島と同色に塗られており、地図作成者が台湾島の付属島嶼と認識していたと分かる。

西南の役1877(明治10)年から4年で、琉球に関する日清間の紛議1879(明治12)年に米国大統領グラントが融和策を提案してから2年。日本はまだ国内が定まらず、海洋強国には遠く、大国である清に先島諸島を譲ろうとしていた時代である。

 

以下は1861,1871,1881に共通(詳細はLinkから実際の地図を参照して欲しい)

▼チャイナの国土がチベット、モンゴル、ウイグル満州等と分けて描かれている。

南シナ海にチャイナとして描かれているのは海南島のみである。

 

下記は1881年の地図の全体図

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1840 ドイツの地図 琉球はJapan

参照地図:米国国会図書館所蔵

hdl.loc.gov

Title:Das südöstliche Asien, oder China, Japan und hinter-Indien mit dem indischen Archipelagus
Other Title:China, Japan und hinter-Indien mit dem indischen Archipelagus
Contributor Names:Geographisches Institut (Weimar, Thuringia, Germany)
Created / Published:Weimer : Geographisches Institut, [1840?]

 

チャイナ、日本、インドネシア図 沖縄拡大図

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▼拡大図の沖縄本島の上部、琉球諸島を示す”LIU KIU”文字列の”U”の文字の近くに(Liëu-kiëu japan Riu kiu)と島々の間に書いてある「japan」の表記が確認できる。琉球のいくつかの表記を並べ日本である旨を示したものだ。

▼日本列島と沖縄列島は同じ色で塗られている。

▼1840(天保11)年は、蛮社の獄1839(天保10)年の翌年、水野忠邦天保の改革1841(天保12)年の前年に当たる。

 

1855 米海軍の海図:黒潮の流れの中に描かれる尖閣

参照地図:米国国会図書館所蔵

hdl.loc.gov

Title:Chart of the coast of China and of the Japan islands : including the Marianes and part of the Philippines
Contributor Names:Maury, W. L.
Created / Published:[Washington, D.C.? : U.S.N.], 1855.

マリアナとフィリピンの一部を含む中国沿岸と日本の島々の海図(米海軍作成)

拡大図

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尖閣部分拡大

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所見:詳細は米国会図書館のweb地図を参照下さい。

▼地図の左下から右上に向かって描かれる矢印は黒潮の流れである。黒潮の流れる矢印の中に挟まれるように描かれている尖閣諸島

▼長崎とフィリピンのマニラを結ぶ高速道路(黒潮)の交差点に尖閣諸島が位置しており、この黒潮の流れを朝貢船、冊封船、朱印船だけではなく、蒸気機関時代の列強諸国も利用してきたことが感覚的にわかるだろう。

▼米海軍のペリー提督が浦賀に来航したのは1853(嘉永6)年、その翌年が日米和親条約、そしてこの地図の描かれた1855(安政2)年となる。

 

 

1843 独 尖閣 が宮古島諸島と同じ色に塗られ台湾島の東半分は無色

1843 独 米国国会図書館所蔵

www.loc.gov

Title:Karte von China und Japan den Manen D'Anville's und Klapproth's
Contributor Names:Berghaus, Heinrich Karl Wilhelm, 1797-1884.
Anville, Jean Baptiste Bourguignon d', 1697-1782.
Justus Perthes (Firm : Gotha, Germany)
Created / Published:Gotha [Germany] : Bei Justus Perthes, 1843.

 

マニング・ダンヴィルとクルップロスの中国と日本の地図(一部拡大図)

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所見:詳細は米議会図書館のwebサイトをご覧ください。

▼上図右下に1843年の発行年

尖閣諸島宮古島諸島と同じ色に塗られている。

琉球諸島を示す”LIEF KHIEU”の文字が、尖閣諸島宮古島諸島の間を走るように描かれている。

台湾島の西海岸線が赤く色どりされている。

▼チャイナ部分とチベットウイグルが区分されている(詳細は米議会図書館のwebサイトで)。

 ▼タバコ島より北にあるSamasanna I.、 I.de la Harpeが宮古島と同色でタバコ島以南が黄色に塗られている。

 

 

1673「御條目」徳川幕府による琉球の領有宣言とヨーロッパ諸国への流布

沖縄は「どんなに遅くとも」1609年には日本。
もちろん、文化的民族的には古代から日本です。

 

1609 (慶長十五年)琉球王国の滅亡。薩摩、琉球に3,000名余りの兵を派遣し、首里城を落して、尚寧王を捕らえる。薩摩藩琉球支配。

 

1611 (慶長十六年)琉球琉球王国の再興 薩摩の「掟15条  」 の制定 幕府の要望に応えて明国との友好関係を継続させる必要があった島津は琉球の王権を(朝貢貿易に係わる範囲で)形式上認めることにした。つまり、島津は明朝の要請に答える形で尚寧王琉球に戻すことにした。しかし、実権が島津にあることを琉球王及び官僚に思い知らせるために起請文を書かせたうえで、掟15か条を制定した。島津家久尚寧王に「日明互市通好」の交渉を命ずる書簡を送る。


1612  (慶長十七年)『明神宗実録』巻四九七、萬暦四十年(1612)秋七月己亥条

福建巡撫丁継嗣奏、琉球国夷使柏寿・陳華等執本国咨文、言王已帰国、特遣修貢。臣等窃見琉球列在藩属固已有年、但爾来奄奄不振、被係日本、即令縦帰、其不足為国明矣。況在人股掌之上、寧保無陰陽其間。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

福建巡撫 丁継嗣が「琉球使節の裏には日本の策謀があり琉球は日本の手や足の上で意のままに動かされている存在ではないか」と疑い、その意見を神宗皇帝に上奏した。どうやら、この時点で島津に捕虜された琉球国王尚寧が帰国したものの、すでに薩摩のコントロール下におかれ、自主性を失ってしまったため、明朝から琉球は国として認めてもらえなかったと推測できる。そして、


1617 (八重山日報に発表の石井望氏の発見)
      大陸政権による琉球の日本への服属の公式承認

www.yaeyama-nippo.com

徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍が、

汝の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役属するは、また皆、わが天朝の赦前の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。

汝并琉球琉球之私役属於汝亦皆吾天朝赦前事

8年前の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことを公式に容認するにいたる。

 

1673 (寛文13年)オランダに対する「御條目」の言い渡し

○ヨーロッパに流布した幕府の琉球領有宣言 いしゐのぞむ氏の研究より

西暦十七世紀後半から、徳川幕府はオランダに対して「御條目」を毎年申し渡していた。オランダ側にも記録がある。その第五条では、「琉球は日本に属するので、オランダは海賊行為をしてはならない」と述べる。

徳川幕府長崎奉行所にその文書の記録が蔵書されており、オランダでも使節が日誌等に書き留めている。

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バハンとは「八幡」とも書かれ、海賊行為のこと。

琉球国は日本の統治下にあるのでどこで遭遇しても琉球船に海賊行為を働いてはならない」

上記の画像は下記の石井氏の発表資料から便宜のため抜き出した。

その代表的で重要なのは次の3人によるもの。

1692年 蘭館長 ケンペル(ドイツ人)

1826年 蘭館医 シーボルト(ドイツ人)

1830年 蘭館長 メイラン

 その史料画像(欧州語による記録)は上記の石井氏の発表資料で見られる。

オランダ商館長へ伝えられた琉球は日本」との情報は、オランダ語はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語等でヨーロッパの国々に伝えられたのである。

 

「日本と琉球、島津氏と琉球王国の関係」についての知見がこの年代に存在し、英国及び欧州に普及したと判断できる表記の地図が世界に残されているのは、偶然ではなく必然なのだ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 

後琉球(1610年~)琉球国のお家再興

1609年に琉球王国は一旦滅びている。

1610年に復活させたのは徳川幕府の都合である。

1610年に復活して薩摩藩支藩として明治維新を迎えた琉球は、かっての、1609年以前の琉球王国ではない。それは島津が幕藩体制に組み込まれたのと同じかそれ以上の独立性を排除された後琉球なのだ。いわば、薩摩藩を盟主とする薩摩藩支藩として徳川幕藩時代を生き抜いてきたのである。

だから、《「琉球王国」を1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国》と定義するのは誤りだ。

沖縄が日本であるのは古代からであるが、近世の日本として組み込まれたのが1609年の琉球王国の滅亡の時だ。その滅亡も復活も中世から近世へと戦国の日本が統一される動きの中で起きた出来事である。

ちなみに、後今川家の例を引くまでもなく、一旦改易されて復活した大名家は多い。琉球もまた徳川幕藩体制に組み込まれ「後琉球(1610年~)」としてお家を再興したのである。


+++++一旦滅亡・改易されて復活した大名家の例(一部)+++++


来島長親1601年

滝川雄利1603年

立花宗茂1603年

丹羽長重1603年

蒔田広定1603年

新庄直頼1604年

相馬義胤1604年

尚 寧 1610年

今川直房1611年

織田信雄1615年

木下利房1615年

高橋直次1615年

岩城貞隆1616年

 

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

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宝永7年(1710)の琉球王尚益の使節江戸城登城の行列。徳川幕府の将軍の代替わりの慶賀及び琉球王の襲位の謝恩の使者として、薩摩藩江戸留守居役を先頭に、鹿児島藩家老以下の警備・先導の薩摩藩士の行列に続いて、慶賀使美里王子・謝恩使豊見城(とみぐすく)王子、副使富盛親方(慶賀)・与座親方(謝恩)他の使節の一行が描かれています。

 

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