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Japan / 琉球中山王両使者登城行列 The Parade of the Ryukyu King's Delegation to Edo Castle in 1710.

琉球中山王両使者登城行列

 


Parade of Ryukyu King's Delegation to Edo Castle ...

 

The Parade of the Ryukyu King's Delegation to Edo Castle in 1710. 
The delegation was for giving Ryukyu King's respect to the new Tycoon of Tokugawa Shogunate and being acknowledged the succession to the throne of Ryukyu Kingdom.
They were escorted by the battalion of the Satsuma (Shimazu) Clan, one of the strongest loads in South Japan that ruled over the southern Kyushu Island and Ryukyu Kingdom.

宝永7年(1710)の琉球王尚益の使節江戸城登城の行列。徳川幕府の将軍の代替わりの慶賀及び琉球王の襲位の謝恩の使者として、薩摩藩江戸留守居役を先頭に、鹿児島藩家老以下の警備・先導の薩摩藩士の行列に続いて、慶賀使美里王子・謝恩使豊見城(とみぐすく)王子、副使富盛親方(慶賀)・与座親方(謝恩)他の使節の一行が描かれています。


The successive Loads of Satsuma Clan intentionally forced Ryukyu King's Delegation to dress in exotic Ming clothes so that the spectators at the parade believed even the kings of foreign countries far from Japan should pay their respect to the Tycoon of Tokugawa.

歴代の薩摩藩主は琉球国王使節にわざと異国風の衣装をまとうよう強制していました。行列を見る人々が徳川将軍家の威光が遠く外国に及んでいることを示すためです。

琉球は、1634年に後に「江戸登り」と言われる、徳川将軍に対する慶賀使・謝恩使を送ることを薩摩に義務づけられました。それは1635年に参勤交代制度が確立する前年のことであり、参勤交代の先駆けになりました。この動画は1710年の江戸登りを描いています。


琉球王国の正史『中山世鑑』では、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖になったとされています。


この『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の仕置書で、琉球の人々の祖先は、日本からの渡来人であり、話し言葉が相違しているのは交通が長い間途絶えていたからであると語っています。


また、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっています。言語学的にも琉球の言語は日本語と同じ源流を持っているといわれております。

History / Ryukyu 「日本語と琉球語」「日本語と朝鮮語」 - kaiunmanzoku's bold audible sighs



琉球と中国の冊封-進貢関係は、1372年、琉球国王中山王の察度が、弟の泰期を遣わし、中国へ進貢したのが始まりだといわれています(但し、1372年の時点で冊封や受爵があった旨の記述はありません。朝貢し皇帝より朝貢の見返りを下賜されたとの記述があるのみです)。その後の歴史は日本(薩摩)と支那大陸歴代王朝との交通の要衝と言うこともあり、国際色豊かなものとなっています。


1404  明の冊封使が初めて来琉する。

1404 シャムとの交易開始

1430 ジャワとの交易開始

1456 マレーシアとの交易開始

1481 紋船の島津への来航の記録『島津国史』。紋船(あやぶね)とは、琉球国王が薩摩島津氏の家督相続その他の慶事を祝って派遣した官船。

1570 シャムとの交易終わる 以後、南海貿易とだえる。

1573 紋船欠礼事件

1591  島津氏、尚寧王に朝鮮征伐のための兵糧米を供出するように命ずる

秀吉から朝鮮出兵のため尚寧王「貴国当邦混而可為一万五千軍役」が課せられたことを告げ、本来なら兵を送らなければならないところを七千人分の兵糧十二か月分と名護屋城普請のための金銀米穀を送るよう要求。

1609 薩摩、琉球に3,000名余りの兵を派遣し、首里城落して、

     尚寧王を捕らえる。琉球王国の滅亡

1611 琉球王国の再興 薩摩の「掟15条」 の制定 幕府の要望に応えて明国との友好関係を継続させる必要があった島津は琉球の王権を(朝貢貿易に係わる範囲で)形式上認めることにした。つまり、島津は明朝の要請に答える形で尚寧王琉球に戻すことにした。しかし、実権が島津にあることを琉球王及び官僚に思い知らせるために起請文を書かせたうえで、掟15か条を制定した。

1612 『明神宗実録』巻四九七、萬暦四十年(1612)秋七月己亥条*

福建巡撫丁継嗣奏、琉球国夷使柏寿・陳華等執本国咨文、言王已帰国、特遣修貢。臣等窃見琉球列在藩属固已有年、但爾来奄奄不振、被係日本、即令縦帰、其不足為国明矣。況在人股掌之上、寧保無陰陽其間。

琉球1612年 『明神宗実録』琉球は日本の手や足の上で意のままに動かされる存在 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

どうやら、島津に捕虜された琉球国王尚寧が帰国したものの、すでに薩摩のコントロール下におかれ、自主性を失ってしまったため、明朝から琉球は国として認めてもらえなかったと推測できそうだ。そして、

 1617 徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍が、「汝の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役属するは、また皆、わが天朝の赦前の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。8年前の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことを公式に容認するにいたる。

大陸政権による琉球の日本への服属の公式承認 / 汝并琉球及琉球之私役属於汝亦皆吾天朝赦前事 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 
 薩摩藩琉球支配が確定した後も琉球から歴代大陸王朝への進貢貿易を続けさせた。また、将軍家に遠国の王ですら服属していると世間に信じさせるため、デモンストレーション効果を狙い、行列ではわざと中国風の衣装を身に着けさせた。

 

1620年代には、一般の琉球人が日本名をつけ、やまと言葉を用い、和歌も作るというように、もともと日本民族である琉球人はその一般人の風俗においても”やまと”そのものであった。それ以前の琉球の経済が日本への黒糖、泡盛漆器等の販売に依存しなければならない以上、一般人の生活のあり様も日本そのものであったのは当然である。

 

それでも、あまりに”やまと化”が顕著なため、冊封使がやってくると中国風の衣装を身に着けさせ、琉球言葉を使うように強制しなければならなかった。

実際に、薩摩藩は何度もお触れを出している。

このことについては、台湾の邱思嘉氏の 國立政治大學日本語文學系碩士論文(指導教授:于乃明 博士)「琉球の両属関係の形成過程」に詳しい。

以下は

http://nccur.lib.nccu.edu.tw/retrieve/83845/600501.pdf

より引用する。

+++++琉球の両属関係の形成過程」からの引用部分+++++

寛永元年(1624)八月二十日、琉球に対して政治と風俗両面のことに関する「定」を制定した。内容は次の通りである。
     定
一、三司官その外諸役職の扶持方、自今以後は御分別次第たるべきのこと、
一、科人死罪・流罪の儀、この方に御伺いに及ばず、御分別次第たるべきこと、
一、日本名を付け、日本支度仕り候は、かたく停止たるべきこと
一、おりめまつりの儀、この方御蔵入の分は、耕作時分違わざるようにと仰せ付けられ候、御分領の儀は御分別次第たるべく候、
一、他国人その地へ参る儀停止たるべきこと、
右条々向後違篇有るべからざるものなり、
寛永元年子八月廿日 比志島宮内少輔(花押)
伊勢兵部少輔(花押)
島津下野守(花押)

 

宝永七年(1710)、六代将軍の承統を慶賀する琉球使節の上洛の前年すなわち同六年(1709)九月二六日附で島津氏から琉球国に下された令達書によると以下のように述べている。
一、道中宿幕之儀、日本向の幕にては、不相応に候、何ぞ為替幕地にて、仕立も替え候様有之度候、繻珍たい類の物に、切入など可然哉。
一、長刀拵様、錦物付候様、能々可有吟味候、
一、右之外、海陸旅立の諸道具、異朝の風物に以候様に可有之、日本向に不紛敷様に可相調、
一、雨具右同断、

琉球側に以上のように命じた。道中の宿幕、鑓、海陸旅立の諸具などを全部清国風で、日本風ではないことを命じた。そのために琉球はずっと異国の身分で慶賀使と謝恩使を派遣していた。


天保七年(1836)尚育王冊封の前年に薩摩は下のように命令した。
一、冠船滞在中、道の島船、那覇着船いたし候はば、やまと年号、やまと衆の氏名、やまと書物、其外すべて唐人見候て差障り候品は、仮里主、御物城、大和横目、見しらべ、取りかくさせ可申候
一、やまと歌、やまと言葉仕るまじく候、若し唐人共やまと言葉にて、何か申しきけ候はば、通ぜざるてい可仕候、
一、やまとめき候風俗これなきよう可相嗜

以上の内容から見ると、冊封使琉球に来たら、日本に関するものをすべて隠すべきである。日本の歌と言葉もすべて禁止されたことが確認できる。
薩摩が命じた内容は大体同じだが、この点から見ると琉球はすでに日本の文化を吸収して、琉球の文化と混じたことが分かってきた。薩摩 が徹底的に琉球を統治したから、その影響が大きかった。そのために、大和の言葉や歌や書類が琉球に流通するようになった。


 +++++琉球の両属関係の形成過程」からの引用部分 終了+++++

 

 

1634   徳川将軍に対する慶賀使・謝恩使を送ることを薩摩に義務づけられる。

1635 日本の鎖国により、幕府公認の中国貿易の窓口としての役割を果たす。

1709 九月二六日附で島津氏から琉球国に下された令達書(上記参考)

1710 琉球中山王両使者登城行列 本記事の出来事があった年。


1854   ペリーと琉米修好条約をむすぶ。
1855   フランスと琉仏条約を結ぶ。
1859   オランダと琉蘭条約を結ぶ。
1872 慶賀使を明治政府に派遣、詔勅により琉球尚泰藩王に封じられ、華族に列せられる。

     外交権を外務省に移す。琉球藩の負債を政府が肩代わり。
1875 冊封の廃止命令
1879 廃藩置県

琉球中山王両使者登城行列」の説明・・・・・国立公文書館の記事から抜粋。
宝永7年(1710)の琉球王尚益の使節江戸城登城の行列です徳川幕府の将軍の代替わりの慶賀及び琉球王の襲位の謝恩の使者が江戸へおも向くことを「江戸上り」と称していました。この年の「江戸のぼり」は同年7月2日に琉球を出発し、翌正徳元年3月22日に琉球に帰着しました。このときの使節は、総勢168名にのぼり、江戸時代で最大のものといわれています。

薩摩藩江戸留守居役を先頭に、鹿児島藩家老以下の警備・先導の薩藩士の行列に続き、慶賀使美里王子・謝恩使豊見城(とみぐすく)王子、副使富盛親方(慶賀)・与座親方(謝恩)他の使節の一行が描かれています。赤い大きな傘は「涼傘」と呼ばれ、虎の旗印は琉球使節の特徴的モチーフです。


 

【参考】

 江戸時代初期に起きた薩摩藩琉球国侵攻と併合に対し、当時の明国高官が「皇帝が大赦(赦免)を行った」と述べ、公式に容認していたことが、長崎純心大学の石井望准教授の調査で明らかになった。(八重山日報 2013年6月4日記事)

http://www.yaeyama-nippo.com/2013/06/04/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB-%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%81%AB%E5%AE%B9%E8%AA%8D-%E6%98%8E-%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%8C%E5%A4%A7%E8%B5%A6-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E5%B8%B0%E5%B1%9E-400%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AB%E5%90%8C%E6%84%8F/

 

 Wikipedia より http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%8A%E3%82%8A

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 *下記を参照下さい

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

 

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