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世論(せろん)と読む。 (よろん)は誤り。NHKが犯人?

過去のFBへの投稿を修正してブログに上げて置く。

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世論せろん)と読む。
よろん)は誤りだが、40年ほど前からNHKが「世論」を(よろん)と呼び始めたと思う。けしからんことだ。

今からでも良い、NHKには正しい国語を守って欲しいと思っている。

 

世界、世間、永世、隔世、絶世・・・これらの「世」はすべて()(せい)と読む。
あの世、この世、世迷いごと、世の中、これらは()と読む。


の違いだ。

 

ちなみに、(よろん)は「輿論」と書く。


「輿」(こし)は棒の上に人が乗る台を載せた乗り物のこと。のせる。かつぐ。
輿に載った偉い人が、輿を担ぐ人、かごかきに世情の動向を聞いて参考にしたことが輿論語源*になっている。今では「おおぜい」の意味に転じている。

輿望(よぼう)はというと、輿に乗った偉い人が下々の人々から寄せられた信頼・期待のことだった。「輿望を担う」という風に使うが、今ではほぼ「衆望」と同じ意味。

さて、「輿望を担うような、輿に載った偉い人が、輿を担ぐ人、かごかきに世情の動向を聞いて参考にしたことが輿論語源*になっている」ことで、「輿論」という言葉が盛んに用いられた頃(主に戦前)は、影響力のある政治家や知識人が発する意見の意味合いがあった。

一方で(主に戦前)は、「世論」とは、世間一般で言われていること、世間の風潮や雰囲気という意味合いであったので、もとは「輿論」(よろん)と「世論」(せろん)とは一線を隔する語句であったと言える。

 

以上は、40年ちょっと前、私が高校時代、教師に教わったことだ。

 

*追記:いしゐのぞむ氏より儒者服虔の訓詁に『輿は衆なり』とある」とご指摘があったため、上記の緑色部分の説明にある語源については訂正する。

ご指摘に基づき調べたところ、もともと「輿」には「衆」、つまり「多い」「多くの民」「多くの家来」の意味が備わっているようです。近世明代の著作『類書纂要』に「輿論とは、輿は衆なり、衆人の議論を謂うなり」と記されるはるか前に、漢以前の古書に記される古代語の「意味解釈」の研究である「訓詁」で『春秋左氏伝』を読み解いた服虔が『輿は衆なり』としていた。意味解釈を語源(漢字の成り立ち)に肉薄して行うというのが訓詁学ですので、上に書いた「輿」の語源についての主張は、分が悪すぎます。

ですので、戦前に「輿論(よろん)」を「知識人の意見」として、「世論(せろん)」と分けて使っていた事実を説明する面白い「話」、一説としておきます。

読み方については、世論は(せろん)、輿論は(よろん)が正しいことに変わりはありません。(2017年8月6日追記)

 

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画像は「コトバンク」から

 

 

 

#中華従北プロパガンダ の意図と特徴とその対策について

慰安婦、南京、軍艦島、その他もろもろの中華従北プロパガンダについて、本質を知ったうえで反撃すべきだ。

 

《中華従北プロパガンダ意図特徴とその対策

以下、中華従北プロパガンダ意図特徴を相手の立場になって記してみる。

わが方の反撃のための対策、対抗手段は相手の攻撃に対応するものでなければならないだろう。

 

①共感と憐憫を得て同情を勝ち取れ。
階級の敵に相応しい邪悪と冷酷さを描き、国際的な同情と援助を勝ち取る。その組織と手段が中華従北プロパガンダの最大の特徴だ。

憐憫と同情の対象でないことを明確にし、邪悪と冷酷の語句はプロパガンダ発信側にあると主張せよ!

 

②社会への影響力を勝ち取れ。
政策や民意に影響を与える種々の機関や団体組織を取り込むこと、特に客観性や科学性に信頼がおけると信じられている学者や教育関係者、テレビや新聞を用いなければならない。

映画には映画、アニメにはアニメ、学者には学者、団体には団体、政府には政府で対抗せよ! いずれの説明や宣伝も影響力の質において相手方を凌駕する物が必要だ。

 

③客観性を偽装せよ。
共産党が表に出ることなく、第三者の筆と口を借りて事実と意見を述べさせること。できれば事実報道と意見報道を別人に語らせること、尚且つ事実と、敵の邪悪と冷酷さに対する非難と悲劇に対する同情を共感をもって伝えることを首尾一貫して行うこと。

国際機関や人権団体、国際ジャーナリストを雇ってでも客観的な真実性と信頼性を確保して対抗すべきだ。

 

日本側の対抗手段は相手の攻撃に個別に対応するほかに#知る自由 #学問の自由 を前面に押し出し、その自由が中華従北の国々では確保されていないことを世界にアピールすることが重要だ。

 

過去の私の本件に関する分析をのべたブログ。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

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ヤマウト(山の倭族) と クマウト(海の倭族)

委奴を「woto」「をと」「うと」と読んでいたという私の説については先に述べた。

 

kaiunmanzoku.hatenablog.com

上のブログは、次のブログに引き継がれて私の脳内妄想をさらに掻き立てた。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

その続きが、本日のブログだ。「ヤマト」と「クマソ」が兄弟(同族)であるということをいまに伝えている「海佐知と山佐知」の兄弟の物語の事だ。

海幸彦と山幸彦の対立は、海の倭度と山の倭度、つまりわたつみ(東シナ海)を渡って来た同族の倭族の間での戦いであった。その結果として、山の倭族(委奴)が勝利を収め、海の倭族(委奴)が敗北し隅(球磨)に追いやられた。

 

山の委奴は、後の神武天皇に繋がっていく。

 

つまり、

ヤマウト(山委奴)は、ヤマト(邪馬台)(大和)となり、

隅(球磨)に追いやられたクマウト(球磨委奴)が、クマソ(熊襲)となった

 のではなかろうか。

 

参考:

kaiunmanzoku.hatenablog.com

 

なお、私には謬説を拡散し通説を批判する意図はない。「門外漢が考えるとこうなる」という観点から新しい視点を提供することが主目的だ。

 

【当ページの画像】

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『中山忠能日記』「正心誠意」 “明治天皇すり替え説”に根拠なし(追記) お夏の方

先のブログで不明だった「高松公子の候名(さぶらいな)は『お夏』」は、神戸大学の学位論文の中に見つけたので、ここに追記しておく。

論文名: 「近世期における宮廷記録とその周辺ー『御湯殿上日記』を中心にして」

著 者: 北上真生 氏  

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d1/D1004768.pdf

この論文の 17頁目(21/149page)に

「准后様よりお八百御れう人御使にて春の御祝き申し入られ候」

と皇女和宮様やのちの明治天皇である祐宮様の名とともに記されているのを発見した。

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念のため拡大

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『長橋局日記』の安政六(1859)年正月一日の条ということだ。なお、『御湯殿上日記』は「おゆどののうえのにっき」と読む。

 

一次資料ではありませんが、既に「『お夏』が高松公子の候名(さぶらいな)」であることは学術上確認されている事がわかります。

『中山忠能日記』「正心誠意」 “明治天皇すり替え説”に根拠なし

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画像は『中山忠能日記』として知られる「正心誠意」の慶應三(1867)年七月十九日の部分を国立国会図書館デジタルコレクションからスクリーンショットしたものだ。

現物はここで見られる:

国立国会図書館デジタルコレクション - 中山忠能日記 : 原題・正心誠意. 第3

 

巷間で話題の “明治天皇すり替え説” が、このページに記載の次の文言

一、寄兵隊ノ
天皇来正月上・・・

 を「奇兵隊天皇」と続けて読むことを「根拠」にしているらしいのだ。

結論から言えば、この説は段落を無視し、「父帝の諒闇」という文言を無視する荒唐無稽な説である。

 

とは言え、まず読み下してから現代文にして意味を考え、調査や検証をしてみよう。

 

【読み下し】

況やご冠禮の故を以て父帝の諒闇を縮めらるるの條、甚だ甚だ然らざるか。 
なほ熟慮ありて答へを示すべし。卿(公卿か)甚だ不服の氣なり。井蛙の徒、大道を辨へず、悲しいかな。正三(位)また光仁の例(を)然るべく稱贊の由なり。

(段落)
一 攝政に拜面す。お八百の姪の事、申し入れ置く一。
一 去る十 日、加州(加賀)より異人上陸す。
一 奇兵隊の。

(段落)

 天皇、来たる正月上中旬の内に御元服し、御治を定めるの事。

 

【現代語訳】

成人式のために父帝(孝明天皇)の葬儀日程を縮めようということすら、承知していただけないのだろうか、もう一度よく考えて答えるべきものであるというのに。公家たちは承服できないようだ。井の中の蛙と一緒で、大道を弁えないことは悲しいことです。正三位(中御門経之?)の方もまた光仁帝の先例を称賛し、そのようにすべきだとこだわっている有様だ。

(段落)
一 摂政二条斉敬)にお会いして、お八百の姪の事を申し入れ置く(事)
一 去る十何日かに加賀藩に異人が上陸したこと
一 奇兵隊の(事)

(段落)
中山忠能の娘慶子の子で忠能の孫にあたる明治*天皇が来る正月の上中旬の内に元服なされて、世の中を定める事。

 

【日記を見てわかること】

どうやら、中山卿以外のお公家さんは、前例もあって父親の喪に服する期間を短くすることを「孝道に背く」として総じて反対の立場であるということに、中山卿は「なんと世間知らずの公家たちであることか」と自身の日記で愚痴をこぼしていると分かる。

明治天皇の父帝は、孝明天皇だ。

父帝の諒闇に服する期間を何とか短縮したいというのが最初の段落の主題だ。

段落の後は、唐突に摂政」と「お八百」が登場する。摂政は少年天皇明治天皇摂政二条斉敬の事だ。その摂政に会ってお八百と称する人の姪の事で報告することがあるらしいと分かる。段落前とは異なる話だ。

そのお八百についても、ついでに調べてみた。当時の禁裏の女官には公家の娘しか入れないということと、考明天皇行幸のシーンを扱った海音寺潮五郎の小説(小説名は調査中)の中に次の下りがある。

+++++

御親征の命が出た後、天皇後宮の女官方に、

「この度の行幸は五、六年は帰って来られないことになるかも知れないから、皇親王(後の明治天皇)をよくお育護して、天運長久を祈るように。皆よく心得ておけ」

と仰せられたところ、

堂上の高松家から入ってお局となっているお八百の方という方が、天皇に申しあげられた。

「天下の人が禁裏を尊崇し奉って、さして高いとも堅牢とも申せないただ一重のお築地を越えて犯し入ることがないのは、三種の神器があらせられるからです。

今の世は日増しに不安になっていますのに、その神器が陛下とともに御遷幸遊ばすのに、皇親王を御安泰にお育て申す道は万々ございません。

もし、久しくこの行幸をなし給うならば、恐れながら皇親王に三種の神器をお伝えになって(皇位を譲り給うての意になる)、即位の礼をなし給うべきでございます」

と押し返し、押し返し申し上げられた。

+++++

それらをもとに、禁裏の後宮に同じ呼び名、候名(さぶらいな)は無いはずなので、堂上の高松家から入ってお局となっているお八百の方を調べてみた。

高松家、千種家〔羽林家〕-公卿類別譜(公家の歴史) を参照すると宮中の女房の官位をいただいている2人の女性がいた。

 

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 2人の候補者のうち、 公子 権典侍。称宣旨局・押小路 と記された、この女性が「局」と称している事が分かった。候名(さぶらいな)との照合は出来なかった(注)が、その姪の話で摂政の耳に入れなければならない話があったのであろう。詳細はわからない。

 

 次の文は、加賀藩に上陸した異人の事だ。これも調べてみると、慶応三年 (1867) 七月、 石川県七尾港に三隻の英国船が到来していることが分かった。

前段落、一つ前の文とも全く関係がなく別件を述べている。

 

 その次の文が、「奇兵隊」だ。これも前3項目(①喪に服す期間の短縮、②摂政とお八百の姪、③加賀藩上陸の英国人)と全く関連の無い事柄を記している。 

 

そして、段落を空けて 少年天皇である明治天皇元服なさる事と続く。

 

①喪に服す期間の短縮、(段落)=以下箇条書き=摂政とお八百の姪、③加賀藩上陸の英国人 、④奇兵隊(段落)明治天皇元服 中山卿の意識が 句読点を打っていることは明白だろう。

 

奇兵隊天皇」説は、段落を無視し、「父帝の諒闇」という文言を無視する荒唐無稽な説であるということだ。

 

 

上は下記のFBでの 長崎純心大学准教授の石井望氏と Yoshiie Minamoto 氏 と私とのやり取りを基に分かったことをまとめてみたものだ。

 

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(注)お夏の方は「高松公子」だった。

『中山忠能日記』「正心誠意」 “明治天皇すり替え説”に根拠なし(追記) お夏の方 - kaiunmanzoku's bold audible sighs

 

*中山忠能の娘慶子の子で忠能の孫にあたる明治)という部分を2017年8月11日に付け加えた。幕末維新に詳しくない方々がこの謬説に惑わされている可能性を考慮して、周知の事実と思われることも記述する必要があると考えた。

Essay /  教条主義の集団は必ず過激化する。共産主義、中華思想、小中華思想、選民思想、カルト(その2)

 

 

彼らの社会で教条と現状とのズレを解消するために行われる監視、検閲、取締りが、どんなに厳しく形式上は上手くいこうとも、彼らの強迫観念自体は決して解消することはない。人間の自由を求める欲求は取締りをする彼ら自身の中にもあるのだから。

 

つまり、取り締まられる「現状」こそが、人間らしさや他者への共感の拠り所になっている部分であり、それらに根差した事象が地表に出ている部分であるからだ。取り締まる側の精神内面の葛藤の類似物であり、そのものなのだ。いわば、取り締まる側は「取り締まる行為」によって、自己の不安や葛藤を鏡に映すがごとく、強迫観念を強化していることになる。

 

教条が支配する社会で、監視、検閲、取締りが常にエスカレートし、ついには暴力による弾圧に変化するのは、この自己の内面の不安や葛藤を打ち消さんが為である。

 

そういうわけで、教条主義の集団は必ず過激化する。

 

上記は、下の続きとして読んでもらっても良い。

kaiunmanzoku.hatenablog.com

孫崎亨氏の「検証 尖閣問題」を検証するページの紹介 尖閣反駁マニュアル百題

過去のFBへの投稿から、尖閣反駁マニュアルの一部を紹介したものをブログにも挙げて置く。

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#尖閣反駁マニュアル百題

孫崎亨氏の「検証 尖閣問題」を検証するページの紹介

この画像は『尖閣反駁マニュアル百題』集広舎 いしゐのぞむ著
の 第二章現代の論説に駁す をスキャンしたものだ。

 

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本著は、本著出版までに世に出た尖閣諸島に関する謬説を網羅して、それを逐一完膚なきまで根拠を示した上で論破している。誰もが、「尖閣諸島がその歴史を通して琉球文化圏であり、日本の固有の領土である」ことが確信できること間違いない。その例示として画像をご覧いただきたい。

近所の本屋にない場合はこちらで購入可能だ。

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友だちー

孫崎享 | Facebook; 氏からは、平成29(2017)年7月29日現在、まだ無音だ。

元外務省の情報局長や元防衛大学校の公共政策科長の肩書を持つ人だけに、この本をご購入のうえ熟読していただきたいと思います。

 

また、政治家や外交官の皆さんには「この本を読まずして尖閣を語ってはならない」と強く警告しておきたい。尖閣史の何たるかを語る唯一の本だからである。

 

世論工作を受け政権中枢に求心力が無くなった日本は今挑発と侵略の最中にある

【日本は今侵略されている】

共産党民進党とマスコミを操縦して「モリカケそば」という世論工作 
#CNKP(Chinese and North Korean Propaganda)
#中華従北プロパガンダ
が大成功し、内閣支持率が落ちた。

北鮮の脅威は語られず、南シナのシーレーンは忘れ去られ、尖閣どころか日本のあちらこちらの領海領空EEZを我が物顔で中共の艦船が行き来する。
北鮮の漁船は銃で脅して日本の資源を盗んでいる。

いまや、中共とその仲間の挑発行為と侵略行為が日本のいたるところで進行中だ。堂々と目に見える形で、・・・。日本は世論工作を受け政権中枢に求心力が無くなったと評価されたのだ。

 

青森県沖、中国公船の侵入を初確認 - 産経ニュースwww.sankei.com

 

尖閣周辺に中国公船4隻 11日連続 - 産経ニュースwww.sankei.com

 

中国公船、対馬と沖ノ島沖に一時領海侵入 海保が初確認 - 産経ニュースwww.sankei.com

 

中国海軍の情報収集艦が津軽海峡で領海侵入 政府は懸念を表明 - 産経ニュースwww.sankei.com

 

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「日本の歴史と文化の尊重」という文意を改正憲法に

ここでは、個々人の個性や思想、嗜好や信条を語るつもりはなく、人種や民族、集団性や国民性を通して日本を語り、その歴史や文化を背景にした日本社会を法的に価値のあるものとして守るべきだという話をしようとしている。

要するに、以下は個人の権利自由とは、別次元の話である。

そのつもりでお読みいただきたい。

 

アイデンティティーを語るときに重要なのは「共通性」だ。

日本は国民国家であり日本文明と言える独自の歴史と文化を持った国だと言える。


移民や帰化人はいても、彼らは日本文化に同化することを前提に渡来して来ている。
このことが大前提になっていると信じる。少なくとも過去はそうだ。


人々の日本文化への同化という事は、日本国憲法にも大日本帝国憲法にも書いていないが、「日本」という概念が出来る前から、今の今までで一番確実な真実の一つだと思う。日本人の共通性は日本文化にあるということだ。源氏物語に出てくる「大和魂」も明治の代の「和魂洋才」もその例として挙げられるだろう。

 

この思いに異議を差し挟む人々が近未来的に多数派になるとは思えない。むしろ、この日本文化を継続する社会を維持したいという思いこそ、共通の思いではなかろうか。

 

だから、憲法という日本の最高法規に記載して保護するだけの法益がここに存在すると主張したい。「日本の歴史と文化の尊重」ということだ。義務として記載するか事実として記載するかは議論になるとしても、海外からの移民や帰化人ですら、従前の居住者と古来より一体となって形作って来た国の形が日本だ。そのことが重要な法益だと思う。その法益の事を昔なら「國體」という抽象化した言葉で言い表していた。より説明的に記すなら「日本の歴史と文化とそれらが生み出してきた日本的価値観を尊重してきた」ことだ。

 今なら「日本の歴史と文化の尊重」と言い表せば足りるだろうと思うのだ。

 

日本の民主主義や立憲主義を語るとき、国民皆が寄る辺と出来る大前提がここにある。

このことを無視して、悪戯に現憲法の全面破棄して大日本帝国憲法を復活させても弊害だけが生じる。現行の三権を今まで以上に機能させる効果が生じるように改正されねばならない。何よりも国土、国民、社会、人権が守れなければ意味がない。そのために日本人が基礎を置くべきなのは「日本の歴史と文化の尊重」なのだ。

そこを無視して話に齟齬を生じさせる輩が増えすぎた。ここに気付かねば、どんな議論も不毛だ。

 

まとめだが、憲法を改正するのであれば、この際、「日本の歴史と文化の尊重」する旨をどこかで表現すべきだと思う。いかがだろうか。

 

以上

 

追記:憲法への記載という意味で、平和を祈る気持ちだけではなく「日本民族の存亡を賭して戦った日本史上唯一無二の本土決戦が沖縄で行われた」旨や「失われた領土」の記述は、ぜひ前文に入れるべきだと思っている。こちらは項を改めてその理由と共に別途主張したいと思う。

 

 

 

天皇陛下の名によって帰化手続完了を告げる儀式を(帰化セレモニーについての提案)

帰化のセレモニーについての提案】

 

儀式を通して日本人になったと実感していただくために

セレモニーは重要です。その中に入れるべきことを提案したい。


①国旗、国歌への忠誠
②日本の歴史と慣習の尊重
③順法
④(以上を日本語で口述宣誓したうえ、)宣誓文に署名
国旗掲揚と国歌斉唱
天皇陛下の名によって帰化手続が完了したことを告げる


日本人なら皇室とのつながりが多少なりともあるというのが、我が国の特徴です。古代に帰化を許された人々は勅許を以って許可され住む場所を与えられたことが記紀に明らかです。
であるならば、⑥の手続きを儀式に組み込むことは非常に重要と考えます。

日本の歴史と伝統の粋を感得させ、儀式を通して日本人になったと実感していただくこと間違いなしと思います。また、日本文化を破壊しようと考える不逞分子の流入を防ぐ一助にもなり得ると思います。


この手続きは、居住許可についても準用すべきだと考えます。

 

 

以下はご参考です。

帰化人の代表  和邇

古事記

又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。〔此和邇吉師者、文首等祖〕

天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕

 

日本書紀)では、王仁

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐、貢良馬二匹。即養於輕阪上廄。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰廄阪也。阿直岐亦能讀經典。及太子菟道稚郎子師焉。於是天皇阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁莫不通達。所謂王仁者 是書首等始祖也。

 

 

十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎子は、阿直岐を師とされた。ここに、〔応神〕天皇阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。

十六年春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。

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 主張したいことは「時の政府の都合や帰化したい個人の営利的都合による帰化ではないよ。誠心誠意これで貴方を正真正銘の日本人として我々日本人が認めるし、あなたも誇りをもって日本人と思ってよいですよ」を形にすることです。

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