【三種の神器継承の精神は八百万の神々と共存してきた日本の一部であって全てではない】
三島由紀夫を誉めすぎたかもしれない。
私は、三島のこの主張《三種の神器継承の精神》には100%賛同しているのだが、三島が体現した三島の生きざまの信奉者ではない。世の中の人を怖がらせてしまうような性格が見え隠れする三島の言動は、正直あまり好きではない。
「日本人とは何であってどうあるべきか」という問いに対する私の立場は、「八百万の神々と(土地土地の神々を排斥することなく)共に生きて来た日本人は、今後ともその生き方を引き継いで行って欲しい」ということだ。だから、「国家」や「国家観」を「人」より、あまり過大に評価してしまっては、日本の歴史文化の中の一部分、日本民族の一部分だけしか将来に財産として残せないことになってしまうと考える。それでは大和民族の名に相応しい日本人像ではないだろう。
かって、国家神道の名において古事記日本書紀以外の神々を排そうとしてしまった反省*1を踏まえ、八百万の神々と共存してきた日本人は、その敬神の精神と共に《三種の神器継承の精神》も、その一部として矛盾することなく引き継いでいくべきだと思っている。八百万の神々に対する敬神の姿勢を損なってしまっては何もならない。
【三種の神器継承の精神】を破壊するような勢力を粉砕し、撃破し去らねばならない。三島由紀夫 - kaiunmanzoku's bold audible sighs
三種の神器継承の精神 その2 - kaiunmanzoku's bold audible sighs
欧米の一神教にある匂い(自己肯定のための他者否定)を消し、異なる意見を持つ人々に対する優しさや思いやりを持つことが、八百万の神々に対する敬神の姿勢(大和心)に通じる。今まで、海外の思想や技術を、漢才や天竺才や洋才といったものを日本人が日本人の文化に合うように(大和心)に取り込んできたように、日本のいつの時代どの時代の国家観もまた大和心の内に取り込めるものでなければならない。八百万の神々や三種の神器継承の精神に敵対するのでなければという条件付きだが、異分子を飲み込めないと言ってそのまま吐き出すのではなく、包摂して自己と一体化してしまうような寛容性が必要だと思う。
三島由紀夫の《三種の神器継承の精神》には100%賛同しているが、結果として世の中(同時代人だけでなく、現在や未来の人々も含めて)の人を怖がらせてしまうような言動では大和心に沿わなかったと感じるのだ。
*1:明治に行われた神社合祀では、43,000社の神社が取り潰された結果、多数の日本古来の祭礼習俗が失われ、由緒と呼ばれる歴史の糸口も壊滅的打撃を受けた。